ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

管玉(くだたま)づくりが見せる古代の地場産業的ものづくり文化と精神【新穂村玉作遺跡群】佐渡は古代のタイムカプセル(2)

f:id:Kaimotu_Hatuji:20191123115822j:plain
新穂歴史民俗資料館

f:id:Kaimotu_Hatuji:20191123115701j:plain
新穂と下畑の玉作遺跡群

佐渡弥生時代(約二千年前)、多種多様な石加工品(石器)、中でも、碧玉と鉄石英の細型管玉、ヒスイやメノウの勾玉を作っていた。

特に面白いのは、工程ごとに集落で分業し、地域全体として玉・管玉を生産供給していた点。

遺跡によっては加工途中のものだけで完成品が出土しないなどの状況から、そういった「分業システム」が見えてくる。

今風に言うと、当時流行の宝飾品類の地場産業だったことになる。「ものづくり+流通」のサプライチェーンのスタイル。

「需要の見通し」も大切で、古代に既に、消費地と生産地の受発注関係が成立していたのかも知れない。

同じ新潟県の刃物類・金属食器で有名な「燕・三条」に似ていると思ったが、考え過ぎだろうか(燕・三条は江戸期以降に発展。豊富な鉱物、森林資源=炭作り、米作りと農具鍛冶が基盤となった)

f:id:Kaimotu_Hatuji:20191123115758j:plain
碧玉と赤玉石

f:id:Kaimotu_Hatuji:20191123115741j:plain
細型管玉の加工プロセスの展示

f:id:Kaimotu_Hatuji:20191125131338p:plain
縄文の首飾り(復元、写真はWiki+追記)

細型管玉から見えるものづくりの精神と文化

弥生当時、全国有数の玉作の生産地で、特に細型管玉や、佐渡特産の角玉(かくだま)を作っていた。

細型管玉は、長さ1センチ、直径2.5ミリの細型の円筒に、径1.5ミリの穴を通して管状にした「薄さ1ミリ0.5ミリの精密工芸品」で、手作業でできるものとしては、このサイズが限界だろう(差し引き1ミリだから、実質の薄さは「÷2」しなければなりませんでした。訂正)

なんと、これを流れ作業で「量産化」していたのだ。

f:id:Kaimotu_Hatuji:20191123160759j:plain
細型管玉の玉作工程

加工手順はわかっているが、このようなひとつひとつに大変手がかかるものを、均質に量産化する・・・

日本が得意とする「ものづくり」のスタイルが、弥生時代佐渡で実践されていたという事実に驚くしかない。

新穂村弥生土器に縄文の名残が見られるように、玉作の弥生集落は、縄文から継承されている。

つまり細型管玉のような、高い「品質管理」のものづくりも「縄文の継承」だと考えることもできる。

f:id:Kaimotu_Hatuji:20191123115612j:plain
弥生土器 左側・文様が縄文的

f:id:Kaimotu_Hatuji:20191123115625j:plain
弥生土器 左下の文様も

石針

パネルの説明にあるように、穿孔の工程で原石に孔を通し管玉にするが、その時に使うのが針石(径1.5ミリ)。

実物を見たことはないが 原石よりも硬度の柔らかい石で孔を穿つ というのは目からウロコだった。

硬いヒスイを使ったのだろうと思っていたが逆だった。でも確かに硬い石で孔を通そうとすると、肝心の原石の方が割れてしまう。

おそらく繊細な石針を作るのに、硬いヒスイで磨いたのだろう。ヒスイは加工作業用の砥石(といし)や敲石(たたきいし)としても使われた。

ヒスイは佐渡の対岸の糸魚川の姫川・青海川から調達できる。

*****

もうひとつ気になったことがあったので、参考までにWikiで調べてみた。中国の鍼(はり)は石器時代に発明され、始めは石鍼が使われたそうだ。

石の針は、意外に広く利用されていた(以下Wiki「鍼」より)

「鍼(はり)の元は石器時代の古代中国において発明された。砭石(へんせき)もしくは石鍼(いしばり、石針とも書く)とよばれるこの鍼の元は主に膿などを破って出すのに使われた。これが後に動物の骨を用いて作られた骨針、竹でできた竹針(箴)、陶器の破片でできた陶針などになっていった。現在使われる金属の鍼は戦国時代頃に作られ始めたといわれる」

*****

佐渡市 新穂歴史民俗資料館

新潟県佐渡市新穂瓜生屋492番地

0259-22-3117

8時30分〜17時(入館は16時30分まで) 毎週月曜日休館、12月1日~2月末は冬期休館