山國(やまぐに)
京都市街北西の周山一帯は、古くは山國(やまぐに)村と云われました。
日本史で「山國」が登場するのは、明治維新・戊辰戦争(1868-1869)の「維新勤王山国隊」でしょうか。
村の郷士80余名が、農民兵として参戦し、後に錦の御旗を掲げて凱旋しました。
山國には南北朝で北朝の拠点となった常照皇寺(じょうしょうこうじ)があり、北朝を守り続けた歴史と誇りがあります。
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京都市内・福王子神社を目印に、周山街道(国道162号線)に入り。途中、紅葉の高雄を通過し、車で小一時間もすすむと、周山の玄関口、道の駅・ウッディ京北に。
一休みしてから、常照皇寺に向かう途中に山國神社。
山國を下る大堰川(おおいがわ)の川岸、北山杉の美しい向山の麓に鎮座しています。
(大堰川は亀岡盆地から保津川(保津峡)となり、さらに嵐山から桂川になる)
杣を守護する山國神社 御祭神・大己貴命(大国主命)
杣は「そま」と読み、神社仏閣、御所などの造営に使用する材木をとる山林のこと。
伐り出される材木を杣木(そまき)、山で働く人を杣人(そまびと)、杣工(そまたくみ)と言います。
山國神社は、桓武天皇の平安京遷都の際、都の造営の木材を供給した山國の山林を守護する社として、御祭神・大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命)をお招きして、宝亀年間(770~780)に創建。
御由緒には、平安京造営で活躍した和気清麿呂(わけのきよまろ)が創建に奉仕したことが書かれていました。
また「以来、大嘗祭(だいじょうさい)の悠紀殿、主基殿(ゆきでん、すきでん)造営の用材を調達する事が恒例となった」とも。
この度の大嘗祭にも(一部)奉納したかと思うが、あいにく神職さんが地元の方々とお忙しそうにしておられたので、また、あらためてお聞きしようと思います。
毎年10月第二日曜の環幸祭では、地元の人々が維新勤王山国隊の隊列を組み、鼓笛行進。
この行列は、昨年(2018)、約100年ぶりに時代祭(平安神宮)に参加、祭の先頭を進みました。
山國神社・御由緒(パンフレットから文字起こし)
第50代垣武天皇延暦年中平安遷都(794)に当たり大内裏御造営の木材を山国の郷より徴せられ此の郷を御杣料地として定め大工寮修理職の官人として本殿を御造営せられ祭主として和気清麿呂公(733~799)が奉仕せられた。
爾来、大嘗祭の悠紀主基の御殿御造営の御用材を調達する事が恒例となった。第67代、三条天皇の長和五年(1016)神位正一位を贈られ御祈願所として菊花の御紋章を賜り、春日・加茂・御霊・日吉の四社を建立して五社明神とした。
源平の兵乱に破壊されたが第87代 四条天皇の天福元年(1233)再建され、第96代、後醍醐天皇、元弘の乱(1333)に亦々破却されたが足利尊氏の臣 細川頼之 当地に隠棲する間、本社復興のことを執奏し、幸いにも応永6年(1399)社殿を復旧、綸旨を賜る、この時足利義満(1358~1408)「丸に二引」の徽章を奉納する、爾来この紋章を当神社の紋章とする。
その後第107代、後陽成天皇の慶長元年(1596)再建され、明治6年(1873)郷社に、明治33年(1900)府社に列格された、延喜式内の古くからの社である。