前回記事(3)
糸魚川でヒスイの大珠(たいしゅ)が造られ始め、北日本、東北、関東に広がっていった様子を紹介。
ヒスイ工房遺跡(寺地遺跡、長者ケ原遺跡(記事後半))
希少な糸魚川のヒスイ(硬玉)産地を流域に持つ、青海川・姫川周辺には、9ケ所の縄文中期遺跡が発見されている。
このうち、海沿いの寺地遺跡(石斧とヒスイハンマー利用の大角地遺跡に直近)、段丘の長者ケ原遺跡でヒスイ大珠の加工跡が見つかっている。(寺地遺跡にも巨大木造、四本柱のウッドサークル)
ヒスイ工房遺跡と判断できるのは、大珠の完成品が少なく、加工用の石器や半製品が多数出土しているから。
この工房遺跡の形は、日本の地場産業のおこり、ヨーロッパのギルド的体制の間接的な証拠になり、佐渡島・管玉(くだたま)匠集団のムラ、玉作遺跡(約2,000年前) と同じ構図で、つまり、糸魚川のものづくり方式が佐渡に継承されたと考えるのが自然だ。
構図とは産地と消費地の関係から生まれる「工房遺跡」のこと。
産地では消費地に向けて、できるだけ多くの「よいモノ」を供給するため、工程ごとに分業化・専業化が進み、匠(たくみ)が生まれる。
大珠の分布から見える縄文中~後期の文化圏・交流圏
分布図は、縄文時代を考えるうえで、大変重要な情報を含んでいる。
さらに弥生時代への変化を考える時の貴重な参考になる。
● 「東北北部」および「北海道渡島」は後(3,000~2,300年前)の遮光器土偶の文化圏(アラハバキ信仰圏、東日流(つがる)勢力?圏)
● 「那珂川流域」および「東京湾周辺」は関東縄文の中心エリア(縄文時代、現在の首都圏・都心部は海の底)
● 糸魚川に隣接する現在の「富山~石川~福井一帯」は西日本との境界エリア(日本海交易ルート)
● 八ヶ岳山麓は諏訪湖周辺エリア(ミシャグジ信仰圏 → 諏訪大社信仰に移行または習合?)
● 伊那谷は静岡県・縄文の中心、登呂遺跡~渥美半島に至るエリア
大珠から見える古代の交易路(関東への新潟・福島ルートと長野・山梨ルート)
すべてについて語り出すとキリがない。ひとつ「海をわたったヒスイ展(新潟県埋蔵文化財センター、終了)」より資料を。
糸魚川の産地から、おおむね、新潟・福島側と長野・山梨側から関東に向けて、大珠が分布するルートが見える。
もう少し解説記事が続きます。(次回、なぜヒスイ大珠は流通したのか?)