はじめに
北海道大学総合博物館(#考古学)では、本州の古墳時代の半ばにあたる4世紀から鎌倉時代の13世紀にかけて、約1,000年続いた #オホーツク文化 をテーマに #礼文島 各遺跡からの出土品の展示をしていました
目次
オホーツク文化
北海道の古代史編年には弥生時代がなく、代わって『続縄文文化(~7世紀)』、その後、8世紀~中世の『擦文(さつもん)文化』が続きます。
ここまでは、ある程度理解していたのですが、北海道大学総合博物館の「アイヌ・先住民センター」の展示をみて『オホーツク文化』が、続縄文文化・擦文文化に並行して、約1,000年間、続いていたことを学びました。
『本州では古墳時代の半ばにあたる4世紀ごろから、鎌倉時代にあたる13世紀にかけて、オホーツク海の南半円環一帯には独自の文化圏がありました』(展示パネルより)
前期は樺太(サハリン)南端~北海道北端のエリア、中・後期はさらに北海道東北部の沿岸~北方四島を含むエリアに広がった(海人の)文化だったようです。
礼文島55遺跡
北海道の北西端の礼文島(れぶんとう)には、縄文中期(上泊)から人が住み始め、縄文後期からオホーツク文化に至る55遺跡が確認されており、その代表的なものが紹介されていました。
オホーツク文化を特徴づけるものが土器で、展示コーナーには多数のオホーツク土器がケースに陳列されています。
縄文土器と比較してみると、違いがわかりますね(縄文土器にくらべ)オホーツク土器は紋様も形もシンプルで、機能性重視の印象です。
(オホーツクの土器の赤い部分は、出土時に欠損していて、展示用に修復された跡です)
縄文以来 日本海・北海道交易のこん跡
有名な船泊遺跡(上の礼文島遺跡地図を参照)からは「縄文後期のお墓に貝製ネックレス、ヒスイ大珠など」が出土しており、礼文島が、縄文の日本海交易ネットワークに含まれていたことがわかります。
船泊遺跡から出土した貝製装飾品には、南西諸島産のイモガイ、タカラガイ、マクラガイなどで造られたものがありました。
また、礼文島では採れない黒曜石(こくようせき)が、島内の各遺跡から出土しています。
オホーツク文化の生活
(本州では弥生時代)オホーツク文化はある程度の独自性を保ちながら、交易を通じて、主に北海道全域の「続縄文文化」と混ざりながら続いたものと考えられます。
礼文島のオホーツク文化では、ニシンやホッケなどを獲り、人が飼うイヌ、家畜としてブタを持ち込んだほか、ヒグマや海獣類を祭礼儀式に用いていた(いけにえ)と考えられています。
ナイフ(写真左中央)などの鉄器は、交易によって手に入れていたということです。