ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

司馬遼太郎さんと大阪夕陽丘【菜の花の季節に】

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興徳寺(大阪市中央区)満開の菜の花 2020年2月11日 真田丸顕彰碑前

司馬遼太郎さん(福田定一、1923年8月7日 - 1996年2月12日、享年72才)は大阪市浪速区塩草(現住所表示)で生まれた。

脚気(かっけ)の療養のため、竹内街道そばのお母様の実家に疎開し、二上山の麓の小学校に通った。

中学・高校は上宮学園(うえのみやがくえん、大阪市天王寺区上之宮町)に通い、

後に当時、天王寺区にあった大阪外国語大学モンゴル語学科に通った(現在は大阪国際交流センター

中学・高校・大学を通して『上本町、うえほんまち』と云われる街に通学した。

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浪速区の自宅(市内の西)から上本町へは、大阪市内を南北に伸びる上町台地の南、夕陽丘あたりの坂を歩いて通学した。

夕陽丘一帯には天王寺七坂があり、そのうちのひとつ、源聖寺坂(げんじょうじざか)が主な通学路になっていた。

七坂の中では唯一曲がりのある坂で、エッセイでは、土塀に囲まれた風情が奈良の街に似て好きだったことが書かれている。

下り(西)の方向、松屋町筋(大阪では、まっちゃまちすじ)を渡った向こうが浪速区、坂からこちらが天王寺区夕陽丘

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源聖寺坂 天王寺七坂のひとつ

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源聖寺阪

歴史小説家』として著名になってからでも、ときどき、東大阪の自宅から夕陽丘あたりまで来て、歩いておられたようだ。

愛染坂(上がり口に愛染堂勝鬘院)隣の大江神社の境内には、西の方向を見渡せる堂があり、そばに俳句碑が建っている。

元禄七年(1649年)、死の直前の芭蕉翁が、重陽節句九月九日、大坂に入り二十六日に近くの料亭・浮瀬(うかむせ)で句会を開いたことに因んで建立されたもの。浮瀬で創作されたものではないが、沈みゆく夕陽を詠んだ一句が彫られている(金沢市兼六園に句碑)

あかあかと 日はつれなくも 秋の風

そして四天王寺で始まった日想観(にっそうかん、じっそうかん)やこの句、浮瀬のことを紹介されていた。

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大江神社境内の俳句碑

司馬さんのことなど露ほども知らない小学生の開物は、ドングリの木から、そばの玉垣(たまがき、写真左)に飛び移ろうとして失敗、頭を数針縫った馬鹿ガキだった。今でもその時のハゲがある。

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句碑そばのドングリの木 向こうにあべのハルカス

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私の歴史の師匠とも云うべき、近所の元ガラス屋の親父さんの話。

40代のバリバリの頃、通りに面した自宅作業場にいた時、突然、白髪で黒メガネの中年男性が訪ねて来て、浮瀬や芭蕉のことを聞いたそうだ。

当時は仕事と〇〇の「二筋」で、歴史のことなど興味もなかった親父さん、冗談まじりに「そんなん知りまへんな~(なんかオイシイもんでっしゃろか)」みたいな返答をしたところ、その男性に叱られたそうだ。

『こんなに史跡に恵まれた所に住んで(どういうことやねん)。アンタぐらいのお年なら地域の歴史を繋いでいかなあきまへんがな(大意)』と

後にそれが司馬さんだと知り、50代から数十年、大阪の歴史を独学し、ボランティアガイドや行政誌に依頼されて寄稿するほどになられた。

なお、親父さんの名誉のために言うと、○○は「主に」おっさん野球。ただもう一筋あったらしいので「三筋」かも知れない。

昭和にはよくあった話で、今は好々爺だ。

司馬さんは生前、自身を『歴史小説家』と規定された。とんでもない矮小化だと思うが、しかし、そのほどよい塩梅(あんばい)が、司馬さんが尊敬され、愛され続ける理由だとも思う。誠に20世紀の叡智、哲人だった。

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