大阪市天王寺区下寺町一丁目の光傳寺さんに、淡嶋明神社(あわしまみょうじんしゃ)が鎮座する。
お寺の中の神社は、明治の神仏分離令(1868年)で多くが寺外に移転したが、少数ながら、寺町には、江戸期以前のこうした姿が残っている。
淡嶋明神社 ご由緒(文字起こし)
當寺に鎮座し奉る『淡嶋明神』は『災厄身代りの人形流し』で知られる和歌山・加太(かだ)の淡嶋明神の分社であります。淡嶋神は薬王神で天照大神の第六の姫君で住吉神の妃になりましたが、婦人病のため離縁となり綾の巻物と神宝をもらって空舟にのり、加太に着いたといわれます。途中嵐にあい當寺に一時避難されたと古史に伝えられております。江戸時代に淡嶋願人という僧が各地をまわって女性の衣類や髪を集め淡嶋堂を建立して納める宗教活動が行われ、當寺もそのひとつで婦人病に悩む人たちの信仰を集めております。
説明すると、本社の淡嶋神社は和歌山の加太(かだ)にあり、加太神社とも云い、人形供養で有名。
淡嶋神社の創建は仁徳天皇の時代と伝えられ、式内社(延喜式神名帳に記載の神社)
淡嶋神社では、男びなのモデルが少彦名神、女びなが神功皇后とされ、仁徳天皇の御代に淡路島そばの友ケ島にあった淡嶋神社が加太に遷宮したのが三月三日、となっている。
また、同日に行われる『ひな流し』神事では、願い事を書き、人形とともに流す。
神社HPに、ひな流し神事の由来は書かれていないが、上で紹介した光傳寺の淡嶋神の話が、それに当たるのかもしれない。
しかし謎なのは、薬王神=薬の神様は少彦名神で男神のはずだが、淡嶋明神は女神であること。(一方、加太の淡嶋神社の御祭神に少彦名神の名は見えるが、淡嶋明神の名は見えない)
(淡嶋明神社・文字起こしの説明に戻る)
空舟は『うつろぶね』と読む。
このブログで『うつろぶね』が登場したのはこれで2回目。前回は、
兵庫県赤穂市坂越の大避神社の由緒に関連して、世阿弥の風姿花伝(ふうしかでん)に「(御祭神の秦河勝(はたのかわかつ)こと大避大明神は)摂津国難波の浦よりうつほ舟に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨のしゃくし(坂越)の浦に着く」と書かれていた。うつほ舟が『うつろぶね』のことだ。
どうも、生きた人が乗る舟ではなかったように思う
また、実際に舟かというとそうでもないかも知れない。
迫害や幽閉のニュアンスを含む『亡き者にする』といった類の史実を隠すためのレトリック(修辞)のようにも思えるが、今のところはわからない。
江戸期の淡嶋願人とは、高野山(真言宗)の高野聖(こうやひじり)、石山本願寺(蓮如の時代、浄土真宗)の講と同じく、信仰の(集金)ネットワーク組織であったようだ。
光傳寺 淡嶋明神社 写真
なかなか個性的な狛犬さん。目が面白い。
2018年9月、大阪市内で被害の大きかった台風19号で倒壊したため、現在の社は真新しい。
UFO説もあるうつろ舟
うつろ舟は全国各地に説話や伝承が残っている。
UFO説などもあるが、民俗学者の折口信夫や柳田國男がまじめに論議しているのが面白い。
なお、坂越の大避(おおさけ)神社は、秦氏がらみで「ダビデ」とも読めるとして『日本・ユダヤ同祖説』の震源地のひとつでもある。
フェイスブックユーザーさんからのコメント(コピー)【2月3日追記】
「……御年十六歳のころ、住吉の一の后そなはらせ給ふ神の御身にも、うるさい病をうけさせ給ふ。……うつろ船にのせ、さかひは七度の浜より流され給ふ。あくる日三月三日淡島に着き給ふ…」(淡島祭文)
住吉ッサン、大海神社さんのすぐ近く、奥の天神さんこと生根神社さんでは、四月一日に針供養が斎行されていたような。
淡嶋伝承・・・スクナヒコナ・・・一寸法師・・・お椀の舟・・・うつろ舟・・・蛭子・・・エビスさん。ついでに住吉さん、神巧皇后、そして仁徳天皇。繋がりそうで...(´▽`)