ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【豊鍬入姫宮】初代 斎王(いつきのみこ)の小祠【御墓・ホケノ山古墳と内行花文鏡】

前回より

大神神社(おおみわじんじゃ)摂社の檜原神社(ひばらじんじゃ)の本殿前。

豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや、御祭神:豊鍬入姫命、とよすきいりひめのみこと)は、昭和六十一年(1986年)十一月五日に創建された新しい社。

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檜原神社 三鳥居(みつどりい)の本殿 手前が豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)

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檜原神社 御由緒より(伊勢巡幸の経緯・文字起こし、一部開物が追記)

第十代崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)は大神の御杖代(みつえしろ、神様の杖代わりとなって奉仕する者)として、この地に三十三年間、朝夕奉仕せられました。更に大神の御心にかなう、ふさわしい鎮座地を求めて、丹波の吉佐宮(よさのみや)、大和の伊豆加志本宮(いつかしもとのみや)、紀伊の奈久佐浜宮(なくさのはまのみや)、吉備の名方浜宮(なかたのはまのみや)の四ケ所を経て檜原の地に戻って来られ、この期間が二十一年でありました。

そして第十一代垂仁天皇の御代、大神は豊鍬入姫命より御杖代をご継承された倭姫命(やまとひめのみこと、垂仁天皇皇女)により伊勢の五十鈴の川上(現在の伊勢神宮内宮)に御遷幸(ごせんこう)の後も、この御蹟(おあと)を尊崇し檜原神社として大神を引き続きお祀りいたして参りました。

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御由緒を読むと、豊鍬入姫宮が小祠でありながら、檜原神社本殿(アマテラス)に仕えるように鎮座している意味がよくわかる。

氏子の女性が御神託を受けた(いわゆる憑かれた)のを契機に建立され、その際、地元・桜井市出身、同じく大神神社の氏子でもあった考古学者(國學院大學名誉教授)樋口清之氏が、家宝の銅鏡(内行花文鏡)を奉納されたと聞いている。

樋口清之氏は大著『梅干しと日本刀』を書いた歴史家でもあり、松本清張さんのブレーンを務めていたこともあるとWikiに紹介されている。

ホケノ山古墳は豊鍬入姫の御墓

大神神社では、豊鍬入姫命の御墓を、檜原神社のある桧原台地のふもと、ホケノ山古墳(前方後円墳、全長80メートル)であるとしている。

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檜原神社-ホケノ山古墳-箸墓古墳

ホケノ山古墳からは、完型の銅鏡一枚(画文帯神獣鏡)のほか、内行花文鏡などの破片(意図的に割られたもの)、銅や鉄の矢じり(銅鏃、鉄鏃)、鉄の刀剣、農工具類が出土した。

内行花文鏡はいわゆるヒメミコの鏡で、花弁の紋様に見えるため、その名が付けられたが、実は「太陽」をあらわす。

なお、至近の「箸墓古墳、はしはかこふん、全長280メートル」は古墳時代の始まりを示す最初の古墳といわれ、またヒミコの古墳という説もある。

続きます。

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画文帯神獣鏡(例)天理市立黒塚古墳展示館

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大型の内行花文鏡(例、八咫鏡と同サイズ直径46.5cm、レプリカ)伊都国歴史博物館

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