まとめ
現在の #大阪城天守閣 は徳川期再築天守。豊臣期天守はその東隣にありました。そこは #古代上町半島 の最標高点で、古来 #龍神の頭 とされてきた所
目次
本文
大阪城に登ったのは約30年ぶり。
地元ゆえ通天閣と同じく眺めるだけでしたが、櫓+西の丸庭園+天守閣の見学がセットになった1,200円コースで入城。
西の丸庭園から大阪城
さすが、有料の西の丸庭園。天守閣を眺めるならここが一番ですね。
もう一枚。
大阪城 天守閣
オフィスビルのごとくの案内板(3階・4階の展示物は撮影禁止)
現在の大阪城は徳川期の大坂城
(2階の情報コーナーのパネルは撮影可。気になるものをパチリ)
現在の大阪城は「徳川再築天守」といって、徳川期に再築されたもので、それ以前の「豊臣期天守」は現天守の東隣にありました。
ここでの古代史的注目点は、最初の豊臣期天守が、地盤(図の薄茶)の一番高い所に築城されたことです。
つまり、大阪市内を南北に走る上町台地の当時、一番高い所に豊臣期天守が建てられたということです。
縄文以来の聖地、石山本願寺の核心部分 ★★★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
そこは縄文時代(近くに森の宮遺跡、縄文時代中期)からの聖地であったはずで、豊臣期天守ができる前、石山本願寺の「核心部分」があったと考えられます。
石山本願寺の寺内町(じないまち、浄土真宗・門徒衆の自治集落)は、内堀の南側、ちょうど修道館や豊国神社のあたり(大阪城マップ参照)で、内堀の内側(北側)が「核心部分」です。
何があったのかというと、古地名の通り『石山、いしやま』。
磐座(いわくら)群、あるいは、何らかの石の構造物(ピラミッドみたいなものかも?笑)の存在が考えられ、そもそも、大阪の地名は、その『石山』にアプローチする大坂・小坂(大きな坂、小さな坂)に由来するとされています。
もちろん石山は、本願寺の時代には、既に遺物・遺溝であったでしょう。本願寺衆が石山をどれほど神聖視していたのかはわかりません。
巨大龍神の頭をめぐる激しい争奪戦
森ノ宮遺跡の縄文中期は5千年前ですから、豊臣期換算で4,500年前から継続して聖地であった場所。
そんな『龍神の頭』に君臨しようとしたのは。秀吉公ひとりではありません。
和議とはいえ10年間続いた石山合戦で、手ごわい石山本願寺衆を苦労の末、退去させたのは1580年、天正8年の織田信長公。
現世御利益の権化のような信長公が、古代からの畿内の水運・陸運の要衝、少なくとも古墳時代以降に国際交流エリアにもなった経済的重要地を放っておくはずはありません。
しかし一方で、もしかしたら、信長公には聖地の認識があったのかも知れません(このあたりは本当に妄想の域を出ませんが、尾張の発祥はヤマト葛城です)
さらにもしかしたら家康公にも、そういった認識が少なからずあったのかも知れません。
数千年以上棲息していた巨大龍神(上町半島)の頭をめぐる激しい争奪戦。
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その後、十年にわたる石山合戦。
秀吉公が大坂城の築城を始め、龍神の頭の新しい主になったのが1583年・天正11年。
その後、莫大な力を注いで天守閣を再築した家康公の徳川家。
信長公、秀吉公、家康公にとって、龍神の頭部には、政治・経済的な魅力以外に、もうひとつの特別な価値があったのでしょうか。
戦国時代についてはほぼ門外漢ですが、日本古代史の視点から考えますと、この時代の謎がまた深くなります。