間人皇女(はしひとのひめみこ)の置かれた状況
本シリーズの主役、間人皇女(はしひとのひめみこ)の立場(系図参照)で、彼女が何を考え、行動したのか、考えてみます。
● お母さんの法提郎女(ほほてのいらつめ)は蘇我系。そして兄も自分も蘇我系
● 兄の古人は出家して吉野に隠棲したのに、嫌疑をかけられ、中大兄皇子(と鎌足)に殺されている
● それを止めなかった(場合によっては加担した)旦那の孝徳大王を心の底から信じられない
● 私の守るべきはただ一人。可愛い息子(有馬皇子)だけよ(孝徳大王就任時、息子はわずか5才)
● だって、兄と同じように(次の大王を狙っている人)に命を狙われるから
『異床同夢』の仮面夫婦★★★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
間人皇女の選択肢は、それほど多くないと思います。
旦那さんの孝徳は大王になってから、宝皇女(姉)と中大兄皇子(おい)の母子を怖れて、難波の地を転々としました(身を守ること優先。息子を次の大王に)
一方、奥方の彼女は、有馬皇子を最優先で生きてゆくことを決意しました(母親の愛として。息子を次の大王に)
夫婦を続けることは『息子を次の大王にする』という目的(利害)で一致しています。
そして、どこに(飛鳥・難波)に住もうが、間人皇女は有馬皇子から離れて住むことはなかったと思います。
彼女の目的はただひとつ、息子を大王にすることですから、最良の策は、孝徳大王が亡くなった時、難波宮に、中宮天皇(中皇女)として居座る ことでした。
正史に残らない飛鳥と難波の東西王朝の状態です
日本書紀を編纂した人は、この時代をどのように描くか、たいへん苦労したでしょうね。
実際、斉明女帝の時代には、飛鳥と難波での行跡が、脈絡もなく登場します。
日本書紀・斉明天皇記は、斉明女帝と間人皇女の行跡が『マゼコゼに』書かれた結果だと考えています
たとえば、有馬皇子が『狂ったふりをして紀の国・牟婁(むろ)への湯治で治ったことを、祖母の斉明女帝が喜び(即位3年9月)、女帝自ら紀ノ国へ湯治に行幸した(即位4年10月)』など。
跡目争いを避けるために、狂ったフリをしなければならない相手(中大兄皇子の母親)に、治ったことをわざわざ報告して、その上、喜ばれるでしょうか。実に変な話です。
万葉集に残された二つの『磐代』の歌
万葉集に残された二つの歌を読んでも、日本書紀に書かれた有馬皇子と斉明女帝のイベントは あり得ません
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有間皇子の自ら傷(いた)みて松が枝を結ぶ歌(ほんとうは二首。一首だけ紹介)
■ 磐代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結び 真幸(まさき)くあらば また還(かへ)り見む(2-141)
訳)岩代(※)の浜松の枝を今、引き結んで幸を祈るのだが、もし命があった時には再び帰ってこれを見よう
※磐代または岩代。現在の和歌山県日高郡南部町。熊野古道が通っていました。
有間皇子が反逆の罪で中大兄皇子に捕らえられ、護送されてゆく途中の歌で、もし命があったらまた見ようという心情を吐露しています。
結果から言いますと、有馬皇子はこの後、藤白の坂(和歌山県海南市藤白)で絞首されます。
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さて次の歌。日本書紀の記述に合わせて、中皇命=斉明女帝が詠んだとされていますが。。。
中皇命(なかつすめらみこと)が、紀の温泉(白浜あたり)に行幸された時の御歌(三首ありますが磐代の一首だけ紹介)
■ 君が代も我が代も知るや磐代(いはしろ)の 岡の草根を いざ結びてな(1-10)
訳)あなたの時代も私の時代も、磐代の丘は変わらない。その丘に生えている草を結びましょう
おかしいですよね。有馬皇子の旅は18才の657年。その彼に奨められ湯治に行幸したことになっていますが、斉明はすでに大王。彼女を(中継ぎ役、大王の死去で大后となった女性の一般名称である)中皇命と呼ぶのはおかしいどころか失礼な話ですから あり得ません
したがって、この歌を詠んだのは、考徳大王が亡くなって中皇女となった間人皇女(はしひとのひめみこ)。
そして彼女が、有馬皇子の処刑後、息子を偲ぶ巡礼の旅で詠んだものと考えれば『磐代』テーマで「返歌」になっていることがわかります。
間人皇女だと考えると、最愛の息子を(結果的に自分がおしつけた欲望で死に至らしめた)母としての深い悔恨の情があらわれた歌ということになります。
ほんとうに哀れな話です。
この世とあの世を結ぶ歌ですから、歌の解釈はもちろん、余韻もずいぶん変わります。
間人皇女は夢破れ、現世での利益など、何もかも、捨て去った心境だったでしょう。
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万葉集のカッコの巻番号を見ておわかりのように、二つの歌が詠まれた時期を逆転させています。
日本書紀の記述に合わせたのでしょう。
しかし、日本書紀には、わざわざ『有馬皇子が狂ったフリをした』ことが書かれています。
なぜ皇子がフリをしなければならなかったのか?
そのことを後世のわたしたちがじっくり考えるチャンスを、書記の編纂者は与えてくれているのではないでしょうか。
(このシリーズ終わり)