ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【まるで推理小説(3)】ライン1本、どんでん返し!?【中宮天皇の謎】★★★

古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE

中宮寺奈良県生駒郡斑鳩町)のご本尊と野中寺の蔵から発見された弥勒菩薩半跏像。

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実在した女性をモデルにした弥勒菩薩半跏像

聖徳太子の母上で、第31代用明大王の皇后だった穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と第36代孝徳大王の間人皇女(はしひとのひめみこ)。

二つの仏像には「実在したモデル」がいて、どちらも「間人、はしひと」だったという点が共通しています。

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野中寺の弥勒菩薩半跏像の台座に銘文が残されており、この仏像のモデル(お祈りする対象)が『中宮天皇』であったことがわかります。

先日の記事で紹介した通り、間人や中宮天皇というのは、特定の個人名ではなく、一般名称で、旦那さんの大王が急逝などして、一時的に大王職を執り行った皇后のことを指すと考えられます。

正史に名前が残らなかったのは、そういう理由だったのでしょう。

銘文が残された666年(付近)で間人の立場であったのが、宝皇女(たからのひめみこ、後の皇極・斉明女帝)と間人皇女(はしひとのひめみこ)の二人。

さてどちらなのか、論争が江戸時代からあるのですが、

私は孝徳大王の皇后・間人皇女を推します

記録では、間人皇女は銘文の前年(665)に亡くなっていますが、疑問はその一点だけ。

それに対して宝皇女でない理由はシンプルで、1)斉明女帝は銘文の5年前(661)に亡くなっているうえ、2)推古女帝と同じく巫女(神道)の大王で 仏教でお祈りする・されるはずがない からです。

孝徳大王と間人皇女は神仏習合を受けいれた

二人が難波の地を遍歴した後、最後に落ち着いた(前期)難波宮(難波長柄豊碕宮跡、なにわのながらのとよさきのみや)には、内裏(住まい)と太極殿(接見する建物)の間、東西に八角殿(院)があったことが、発掘調査でわかっています。

法隆寺の夢殿、四天王寺の太子殿などと同じ『八角形の建物』です。

これが宮の核心エリアに置かれた意味を考えています。

仏教に帰依したとまで言い切れませんが、少なくとも仏教を受けいれ、神道と融和を図ろうとした意図を感じます。

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難波宮 内裏と太極殿の間、東西に八角殿院 オレンジが前期難波宮

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難波宮 八角殿跡

当時の海外との接点で、四天王寺の創建(593)以来、仏教をいち早く、そして多くの人が受け入れた難波の地(古代上町半島)に、宮を置いた理由のひとつと言えるでしょう。

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ライン一本、どんでんがえし!?

正史では、間人皇女は中大兄皇子と「実の」兄妹(姉弟?)とされ、間人皇女は旦那の考徳大王を捨てて、兄とともに母親(宝皇女)がいる飛鳥に帰ったと伝えられています。歴史学者の中には、その理由を「兄妹の道ならぬ恋」とする人もいるぐらいです。

このシリーズ(1)(2)でも、正史に基づいた系図を紹介していますが、確かにその通りなら、正史が伝えることがあり得るかも知れません。しかしそうなると 野中寺銘文が伝える『中宮天皇』の史実とまったく合いません

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野中寺 弥勒菩薩半跏像が制作された666年前後の歴代天皇(1)

これを考えるのに、調べていて、時間がかかりました。

詳しくは次回に書きますが、本当の系図はこうであったと考えるようになりました。

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野中寺 弥勒菩薩半跏像が制作された666年前後の歴代天皇(3)

人皇女のお母さんを、法提郎女(ほほてのいらつめ)に変えただけなんですが、大王夫妻が置かれた深刻な状況が、いきなり見えてきます。

人皇女は、実のお兄さんを(異母きょうだいの)中大兄皇子に攻め殺されていたことになります。

そして、法提郎女の姓は蘇我中大兄皇子乙巳の変(645)で暗殺した蘇我馬子の一族ということになります。

このラインの変更には、万葉集がヒントになりました。

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