野中寺 金銅製の弥勒菩薩半跏像の銘文に書かれた『中宮天皇』とは
前回の続きです。
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
正史にない『中宮天皇』とは誰なのでしょうか。
それを考えるために、二つのポイントを紹介します。
大兄皇子(おおえのおうじ)
この時代、大王の就任時に、次の大王候補として「大兄皇子(おおえのおうじ)」が決められます。
舒明天皇には、二人の妃がおり、それぞれに息子がおり(しかもやっかいなことに)二人とも大兄皇子でした。
法提郎女(ほほてのいらつめ)には古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)、宝皇女(たからひめみこ、皇極・斉明女帝)には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。
第一皇子は古人で、それゆえ、後の天智天応は、この時、第二という意味で「中」の大兄皇子だったのです。
古人は、乙巳の変(645)で入鹿が暗殺されたのを目の当たりにし、恐怖から吉野に出家しました。
にもかかわらず、直後に中大兄皇子(当時19才)に攻め殺されたと正史で伝えられています。
これが第一のポイントです。
というのは、19才の若者が、何の後ろ楯もなく、入鹿(崇仏派)と古人(仏教に帰依)の二人を殺すという荒っぽいことができるのでしょうか。
そして、このクーデターのような事件が相次いだ年に、天皇となった考徳が、飛鳥を離れ、難波の地(古代上町半島)を転々としました。
彼が真に恐れたのは、中大兄皇子でしょうか、それとも、実質的に大后になった宝皇女でしょうか。
・・・推理にもならないほど、わかりやすい展開ですよね。
本当であれば、古人がいなくなった時点で、宝皇女は19才の息子を天皇にできたのでしょうが、生々しい事件の直後でもあり、母親(大后)としては、
自分が実権を握りながら、弟をワンポイントの天皇に就かせたというのが一番ありそうな話です。
実際、孝徳天皇の後に、再度、斉明女帝として天皇の位に就いています。
では、なぜ後妻でしかも連れ子までいた宝皇女が、これほどまでに権力をコントロールできたのでしょうか。
天皇が急逝した場合、印璽(いんじ)を預かっている皇后が、次の準備が整うまで、権力の 中継ぎ をしたからです。
簡単な話、宝皇女ほどの「ヤリテ」なら、孝徳天皇に印璽を渡さないまま、天皇に就かせることができたかも知れません。
間人(はしひと)
そういう立場の皇后を「間人」あるいは「中宮」と呼んだと思います。
同じように急逝した用明天皇の奥さんが、穴穂部「間人」皇女と云われた例もありますから(聖徳太子のお母さん-中宮寺)
ということは、考徳天皇の皇后、間人皇女(はしひとのひめみこ)も、配偶者の死に際して、大后・宝皇女と同じ立場になった。
ここが第二のポイントです。
そして、二人の『間人』のうちどちらかが、万葉集で中皇命(なかつすめらみこと)と呼ばれた(万葉集の作者名)。
シャレみたいな話ですが、間をつなぐ『中』継ぎの人、つまり「間人」が『皇命、すめらみこと』と呼ばれた。
意味的には野中寺(やちゅうじ、大阪府羽曳野市)の弥勒菩薩像銘文に書かれた『中宮天皇』と同じです。
となると、候補者は二人しかいません
宝皇女(斉明女帝)か。間人皇女か。
江戸期の国学者・荷田春満は『中皇命』を間人皇女とする説を唱えています。
一方、斉明女帝を『中皇命』とする説も根強くあります。
さて、江戸以来のこの論争。はたしてどちらなのでしょうか。
次回、原点に戻って、野中寺の弥勒菩薩像銘文をもとに考えてみたいと思います。