まとめ
現世の姉 #大伯皇女 は、#吉備池 から 遠く #大和二上山 をのぞみ、あの世の弟 #大津皇子 を想います。 過酷な運命に翻弄された姉弟の哀しい物語。#万葉集 #磐余
目次
本文
春日神社(桜井市吉備259)の裏手、吉備池廃寺跡、吉備池の堤に建てられた万葉碑。
ここからは大和二上山の雄岳と雌岳が、まるで姉弟のように仲良く並んで見えます。
うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山を いろせとわが見む
(大伯皇女(おおくのひめみこ)、万葉集巻2-165)※うつそみ=現身、二上山=ふたかみやま、いろせ=弟背
現世に生きている私は、明日から二上山をあなたとして拝みましょう
大伯皇女(おおくのひめみこ)が、亡き弟を想い、大和二上山をみて詠んだ詩です。
大津皇子(おおつのみこ)は、文武に秀で、政治手腕の評価も高く、どうやら天武天皇は後継者にと考えていたようです。
しかし天武の崩御で、皇太后となったサララ姫(後の持統天皇)は息子の草壁皇子を後継者にと考え始めます。
・・・天武が崩御した直後(686年)、謀反の嫌疑をかけられ、大津皇子は磐余(いわれ)の自邸で自害します。
姉の大伯皇女は、伊勢の斎宮(さいぐう、内宮下宮の神様を斎たまわる親王)でした。
伊勢にいる時、大津皇子がお忍びで訪れ、その時に彼女が読んだ詩(二首)が残されています。
我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁あかとき 露に我が立ち濡れし(巻2‐105)
二人ゆけど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ(巻2-106)
お母さんの大田皇女は早くに亡くなっており、二人は、幼いころ(姉七才、弟五才)から、身を護りあって生きてきました。
吉備池の名の由来について
天武天皇は皇太子のころ、白村江(はくすきのえ)の戦いに出征しています。
身ごもった妻の大田皇女も同行。
遠征の途上、飛鳥時代の吉備・大伯郡(現在の岡山県邑久郡)で長女が生まれ、大伯皇女と名付けられました。
吉備池は、大伯皇女の出生地にちなんだ名と考えるのが自然でしょう。
春日神社(桜井市吉備259)
御祭神:(磐座)大津皇子、武甕槌命(たけみかづち)、経津主命(ふつぬし)、天児屋根命(あまのこやね)、姫大神、天武天皇
当初、大津皇子のイワクラがおかれたところに、後世、当神社が創建されたのでしょうか(確認していないので推定)
姫大神の名が見えますが、伊勢斎宮であった大伯皇女かも知れません。
天智(兄)・天武(弟)系図
作ってみました。参考にご覧ください。
天武天皇は、壬申の乱(672)で、天智大王の息子・大友皇子(弘文大王)を破り、第40代に就きました。
天智・天武とも、たくさんの子孫を残しています。図には主なものだけ描いています。
(日本史では天皇を名乗ったのは天武の代からです)