はじめに
大阪府門真(かどま)市に #堤根神社(式内社)が二社、本日紹介するのは宮野町の方。日本書紀・仁徳期 #浮かびのひょうたん 伝承が御由緒 境内に隣接する #茨田堤 の史跡遺構 #門真えびす
目次
本文
大阪府門真市は、かつてのナショナル、現在のパナソニックの本拠地で、知る人ぞ知る門真レンコンの産地。
古川(一級河川)が南北に流れる市域一帯は、かつての湖・潟があった大阪平野の低湿地帯。
松下幸之助さんは大正時代、人もまばらで土地が広くて安かったレンコンが成るような湿地に工場を建設し、起業しました。
堤根神社(宮野町)門真えびす
門真市には、堤根神社(平安時代の延喜式神名帳に記載)がこの宮野町と稗島(ひえじま)に二社あり、いずれも式内社としています。
本記事は宮野町の堤根神社について。地元では門真えびすと云われています。
御祭神の彦八井耳命(ひこやいみみ。古事記では日子八井)は、茨田堤(まんだのつつみ)を築いた茨田氏(連むらじ、宿祢すくね)の祖とされています。(また別記事で紹介)
早朝で、拝殿が開いていませんので、ガラス越しに失礼して。
随身は向かって左の右大臣が若者、向かって右の左大臣が翁、かと思いましたが二人とも若いですね。
日本書紀(仁徳期)茨田堤の築堤の伝承に登場した、河内の茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)と武蔵の強頸(こわくび)のような気がします(記事末、日本書紀伝承、現代訳)
史跡 茨田堤
堤根神社の北に隣接して茨田堤が史跡保存されています。堤跡を見ることができるのはここだけです。
浮かびひょうたんの由緒(日本書紀 仁徳十一年、現代語訳)
冬十月、宮の北の野原を掘って南の川(大和川)を西の海(大阪湾)に通した。これを 堀江 という。また北の川(淀川)の泥を防ぐために 茨田堤 を築造した。
この時、二か所ほど難航した堤防があった。(仁徳)天皇は神託を受け、武蔵の強頸(こわくび)と河内の茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)の二人を人身御供として川の神に捧げることにした。
強頸は泣きながら水に入って死に、ひとつの堤防は完成した。衫子は丸い瓢(ひさご、ひょうたんのこと)を二つ取って水に投げ入れ「川の神よ、もし私を欲しいと思われるなら、この瓢を沈めよ。本当の神とわかれば自ら身を投げましょう。しかし瓢を沈めることができなければ、偽りの神に身を捧げることはありません」と語った。瓢は沈みかけたが浮いて流れていった。こうして衫子は死なず、堤防も完成した。衫子は知恵によって助かったのである。その堤防は強頸断間(こわくびのたえま)、衫子断間(ころものこのたえま)と名づけられた。
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