はじめに
稲作の弥生以来、太陽(月)の運行が重要で古い日本は東西中心でしたが、太子の仏教思想や陰陽道の発展とともに八方を意識し始めたと推理されます。そこに中国風とインド風も混ざり込み、実にヤヤコシイです
目次
本文
七曜紋
道頓堀(どうとんぼり)は、喰いだおれの街、大阪ミナミのシンボルとして有名ですが、大阪人でもあまり知らないのがここ。
市内を南北に通る松屋町筋(まつやまちすじ、大阪人は「まっちゃまちすじ」)の西側、東横堀川(運河)を流れて、高津さんあたりでグイっと西に折れると、そこから先が東西を流れる道頓堀。
写真(右)がちょうど道頓堀の起点。東横堀川はご覧の通り、阪神高速の高架下を流れるので、グーグルマップでもチラッとしか見えません。
前回、紹介した法善寺まで、道頓堀に沿ってミナミの繁華街を歩く途中のビルの壁に七曜紋。
ホームページによると、自安寺さんは江戸中期に、墓と刑場があったところに建立され、以来「千日前の妙見さん」と親しまれ、明治初期に形場が廃止されて、現在の千日前の歓楽街に発展したそうです。
このシリーズを書くにおいて調べていた知識では、妙見信仰(神仏習合)の七曜紋は、だいたい北斗七星をあらわすようです。
妙見信仰は、日本では聖徳太子の北辰北斗思想がほぼ原形かと思いますが、太子はもともと、仏教思想をあらわすものとして六角を重んじていた可能性が高いです。
九曜紋
早ければ太子の時代か、あるいは後世に、転法輪の仏法説話とともに、神仏習合シンボルとしての八角形の九曜紋が生まれ、当シリーズで紹介したように、平安京から浸透していったのではないかと考えています。
(出雲の富家伝承では、法隆寺の夢殿は、もともと方形でつくられ、後世に太子の教えを象徴するものとして八角形に建て替えられたと紹介されています。)
九曜紋の解釈は、いく通りもあって、①(自分を中心に)八方方位、方位神(シリーズ(2))、②月~日の七曜に羅睺(らご)・計斗(けいと)の二星を合わせる(シリーズ(1))、③北極星に北斗七星の八星の中央に地を置く(千葉神社の裏紋は十曜紋)、④それらの組み合わせ・ミックスタイプ、などです。
八将神(八王子)
④は、八将神(八王子)とされるものが代表で、牛頭天王の八王子*1が八方に並べられる信仰で、①や②が牛頭天王(スサノオ)信仰と習合して成立したものと考えられます。
八王子は、六曜星のほかに、羅睺の黄幡神(おうばんしん)、計斗の豹尾神(ひょうびしん)を加えた八星であらわされ、中央あるいは周囲に牛頭天王またはその后・歳徳神(としとくじん)が描かれた御神影図としてあらわされたりします。
羅睺(らご)と計斗(けいと)は、インド神話に登場する ラーフ と ケートゥ という蛇神が起源です。シリーズ(1)では「妖星二ビル・惑星Xのような」と紹介しましたが、その正体はインド神話の蛇神でした。
また、羅睺の黄幡神(おうばんしん)あるいは計斗の豹尾神(ひょうびしん)は、日本ではスサノオと習合しています。
でも、なぜスサノオの話が絡むのでしょうか。元をたどってゆくと大変面白い話に繋がってゆきます(続きます)