2026年7月26日、飛鳥・藤原の宮都・世界遺産登録決定ヽ(^o^)丿。日本の歴史資産がまたひとつ世界に認められました。そんな日ではありますが、いや、そんな日だからこそ、あらためて #蘇我三代 にスポットを当ててみました
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創られた?蘇我三代
当ブログでは、ときどき「教科書にない日本史」カテゴリーで書いていますが、
日本の歴史から消されたかも知れない史実に焦点を当てています。
史実の「消去」は、それを埋め合わせる別のストーリーの「捏造」と表裏一体です。
その代表的なひとつが、
飛鳥の都の 馬子(うまこ)−蝦夷(えみし)−入鹿(いるか) の 蘇我三代 のストーリーです。
当ブログ開始直後の七年前に書いた記事ですが、今回は、もう少しブラッシュアップして整理してみました。
記紀の温度差
蘇我三代については、
・古事記では、ほとんど言及がない一方、
・日本書紀では、飛鳥時代の主役級(悪役)として登場します。
この強烈な温度差は、
同時代の、日本書紀(舎人親王)と古事記(太安万侶)の編纂の目的が、そもそも異なっていたことを示唆しています。
現代風に言うと、記紀は、編纂を命令した天武天皇に対する、日本史の二つのシナリオ(A案・B案)だったのかも知れません。
考古学的証拠はゼロ
まず、客観的な事実として挙げておきますと、
蘇我三代については、現時点では、考古学の観点から存在していたという確実な証拠は、何ひとつありません。
代表的なお話を紹介しておきましょう。
・「飛鳥寺は馬子が開基した」という日本書紀の記述を裏付ける出土物はなく、考古学的には確認されていない。(ただし蘇我氏(曽我氏)という有力一族の氏寺であったことはほぼ確実)
・「飛鳥寺裏の五輪塔は入鹿の首塚」というよく知られた話は、地元では尼僧の五輪塔と伝えられる。そもそも五輪塔は鎌倉時代以降の様式。

・「石舞台(方墳)が馬子の墓だった」ことを裏付ける出土物は発見されていない
・「甘樫丘に蝦夷・入鹿の大邸宅があった」という日本書紀の記述を裏付ける出土物は見つかっていない

・奈良(橿原市)には蘇我氏に関連すると考えられる二社がありますが、三代と直接関連づける史料等はなく、いずれも、比定または伝承にすぎない。(宗我坐宗我都比古神社は比定、入鹿神社は伝承に基づく由緒)
「定説」として扱われる理由
では、なぜ、蘇我三代は定説として扱われるのでしょうか。
その理由は意外と単純で、
現代の研究者が論文作成に必要とする過去の参考文献のほとんどが「蘇我三代が存在していたことを前提」に書かれているからです。
後進の研究者が、蘇我三代を否定することは、自分たちの師匠・先輩筋が積み重ねてきた業績を否定することになりますが、
それ以上に、過去の研究業績を否定するなら、自身の論文に参考文献を掲示できない、つまり、研究論文をひとつも書くことができないことになるからです。
辛口な話ですが、これは、若手研究者から、実際に耳にしたことであります。
蘇我三代のストーリー(日本書紀、要約)
日本書紀に登場する蘇我三代は、
厩戸皇子とともに物部氏を滅ぼした丁未の乱を除き、いわゆる『逆臣』として描かれています。
*丁未の乱(587)は、崇仏派・蘇我馬子と廃仏派・物部守屋の戦いとして、当事者である厩戸皇子だけでなく、後の推古天皇もバイプレーヤーとして、
*乱後は「聖人」厩戸皇子とともに平和な飛鳥時代を築いた「名君」推古天皇というイメージで描かれています。
一方で、蘇我三代は、
*馬子が首謀した崇峻天皇の暗殺(592)、
*蝦夷・入鹿の、山背大兄皇子(太子の息子)自害(643)への関与など、
横暴の限りを尽くし、
*最後は、乙巳の変(645)で、中大兄皇子(天智天皇)に成敗されて滅びます。
*蘇我氏亡き後、大化の改新により、日本は新しい統治時代を迎える
蘇我三代は、天皇家に対する「逆臣」として描かれ、歴史から抹消されるとともに、
蘇我三代を悪役に見立てた「勧善懲悪」の物語に仕上げられています。
