秦氏(はたうじ)のことをもっと知りたいと思うようになったのが「下鴨神社と上賀茂神社」の違い、から。
これは「行ってみればわかる話」だが、同じ賀茂社なのに雰囲気が違う。
個人的感想だが、下鴨社は「カジュアル」、上賀茂社は「フォーマル」な感じ。もちろん、どちらがよいわるいではない。
なぜだろう?と考えていたが、
上賀茂社が創建された奈良時代、京都(山城)で大勢力になっていた「秦氏」が創建に関わったことが関係しているのかも知れない(天武天皇も関わった官製神社)
ただ、斎王さん(神様のお世話をする若い姫様)にしてみれば、平安京(実家)に近いこともあり、下鴨の方が居心地がよかった気がする 笑
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秦氏に関しては、今のところ「西播磨~大阪~摂津(淀川沿い)~京都(山城)~近江」という大きな視点で考えている。
西播磨より西(南)、近江より東(北)は今のところよくわからない。
これらのエリアにある秦氏に関連のあるところを、できるだけ回りたい。
都市伝説やネットで多く語られていることも含めて(もちろん否定もせず)、事実を積み上げ、考えてきたことと照らし合わせ、自分なりのストーリーにしたいと思う。
手始めに(地元)大阪夕陽丘から
ご存知、四天王寺は、丁未の乱(587年)で聖徳太子(軍)が劣勢から物部守屋(軍)を破り、その成就の証として荒陵(あらはか)に建立された(593年)
丁未の乱では、わずか10数歳だった太子を補佐したのが秦河勝(はたのかわかつ)であることはよく知られている。
本来、その役割は、蘇我馬子(そがのうまこ)のはずだが大阪市内、どころか、大阪府下のどこにも、蘇我馬子が実在したことを示す証拠は皆無 だ。
かといって、秦河勝の神社、遺構・遺跡も市内にはあまりないが、ほんの少しだけある。
大阪府下では摂津方面(淀川沿い)に多い。
東儀さん・ご先祖代々のお墓、天王寺区伶人町
左パネル(文字起し)
良運院(りょううんいん)には、千四百年にわたって四天王寺の雅楽演奏に携わってきた天王寺樂人、東儀氏代々の墓所がある、同氏は、聖徳太子を経済的・軍事的に支えた秦河勝の子孫とされる。墓碑には「太秦宿祢(うずまさのすくね)」の姓が冠され、秦氏の首長系の子孫であることを示している。「聖徳太子伝暦」には、推古20年(612年)に百済より渡来した味摩之(みまし)が伎楽を伝えたと伝承される。太子の命により、この味摩之の弟子となったのが河勝の息子や縁者たちであった。ここに天王寺樂所(がくそ)の歴史が始まる。応仁の乱(1467-77)により京都の樂人が四散した際には、天王寺樂人は宮中に登用され舞楽の復興に寄与した。16世紀以降は、本拠地の天王寺に在住した本家筋の「在天樂人」と宮中の儀式等を担当した「在京楽人」とに分かれたが、ここに鎮まるのは「在天」の東儀氏の人々である。
右パネル(文字起し)
東儀一族は、秦河勝を祖とする雅楽師の名家で、天王寺楽所に属していた。中世後期からは官位を受けて宮中の楽師ともなり、江戸時代には徳川家光に招かれ、少数の庶流が幕府の樂人となった。明治3年に大部分の樂師が太政官雅楽局(現在の宮内庁楽部)に召集され東京に移住した。良運院には江戸前期からの本家歴代の墓所がある。大阪市教育委員会
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天王寺七坂のひとつ、写真の天神坂を上りきった一帯で谷町筋に面している。四天王寺さんまで歩いて数分。
(看板が見える安居神社(安居天神)は、大坂夏の陣で真田幸村公が自刃した所、戦い終えた幸村公像、戦死の跡の碑がある)
四天王寺・鐘つき堂の鐘の音は「ラ」らしく、楽人が演奏の「音合わせ」に使っていたと聞いている。
鐘つき堂の手前が亀の池。写真にないがすぐ左に有名な舞楽の石舞台がある。
楽人の踊りと演奏にあわせてカメが優雅に踊りだすらしい ウソッ ノ゚Д゚)ノ