ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【融通念佛宗総本山 大念佛寺】大阪・秦氏のこん跡を探して【クマタのハタさん】

はじめに

日本古代史 #秦氏。北九州~瀬戸内沿岸に足跡を残し、物部氏を滅ぼしてから(#秦河勝)次に登場するのが伏見や京都。なぜか大阪で足跡が途絶えます #良忍 #融通念佛宗 #大念佛寺 #藤原秦氏 #百万遍念仏

目次

本文

杭全(クマタ)の(秦)ハタさん

私にとっての「秦」といえば「クマタのハタさん」。

中学二年の夏休み、図書館でたまたま向かい合わせに座ったのが「杭全の秦さん」。

話をするうちに「クマタ」から通う、同じ中学校の同級生であることが判明。

こちらは三組、彼女は七組。階も違い、始めて合った目のクリッとした彼女。。。後に、常に学年トップの学力であることを知ります(トップクラスじゃありません)

頭のデキの差もあり、遠い世界の彼女への、淡い恋心のまま卒業。

学区が違う彼女とはそれまでだったんですが、以来「秦」といえば、私には「杭全(くまた)」のイメージ。

大阪(摂津・河内)で薄い秦氏の存在感

西暦三百年代、応神天皇(第15代)の時代、弓月君(ゆづきのきみ、融通王とも)が求めて、百二十の県の民(一説では三~四万人!)とともに、政情不安の百済から渡来(ほとんど避難)し、帰化した一族です。

秦の始皇帝の子孫という説があるほか、日本ユダヤ同祖論を語る上で欠くことのできない氏族です。

北九州(豊前)に入り、吉備(岡山)、讃岐(愛媛)、播磨(兵庫)などに足跡を残し、瀬戸内海を進んできたのは間違いないですが、そこからいきなり伏見・山城(京都)に飛んでしまいます。

どうも大阪での足跡がハッキリしない

聖徳太子厩戸皇子)に協力して、丁未の乱(587)で物部氏(宗家)を滅ぼしたのが、秦氏の頭領・秦河勝(はたのかわかつ)であるにもかかわらずです。

杭全、平野あたり

思い出すのは「クマタのハタさん」。

秦氏のこん跡はないかと行った次第(気持ちの中ではハタさんのこん跡もね。笑)

天王寺からだとJR関西線で二駅約10分。歩いて行くには遠く、たまに車で通るぐらいで、平野・杭全の街を歩いたのは、実は初めて。

www.zero-position.com

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融通念佛宗総本山 大念佛寺大阪市平野区平野上町)

大念佛寺は杭全神社から徒歩10分ほど。

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融通念仏宗総本山 大源山 大念仏寺

一茶三十三歳(寛政七年、1795)の春、四国から播磨を経て大坂へ。天王寺にお詣りした後、平野を経て藤井寺の誉田八幡へ向かう途中、大念佛寺に寄り詠んだ句です(碑より)

ここに融通大念仏という云ふあり練供養のありしと見えて其の橋がかりあり

春風や 順禮ともか ねり供養

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大念仏寺 境内図 山門の一茶の句

それにしても一茶の旅のルートも怪しいですね。オール秦氏がらみな感じです。誉田八幡は応神天皇陵(惠我藻伏崗陵)を祀る社です。(誉田八幡は過去記事あり。検索窓から)

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大念佛寺 万部おねり 看板

でかくて、実に立派な本堂です。

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大念佛寺 本堂

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大念佛寺 本堂

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大念佛寺 本堂

大念佛寺を開基した良忍上人

鳥羽上皇の勅願で当寺を開基した、良忍上人(りょうにん)は平安時代の終わり頃、建久四年(1072年)、尾州知多郡富田荘(現東海市)の領主、藤原秦氏 の家の生まれとのこと。(記事末に略伝文字起こし)

藤原秦氏とは初見ですが、また調べておきましょう。

しかし「クマタのハタさん」。繋がりを知る由もありませんが、頭の良さといい「まさか!?良忍上人の血筋!?」とか、思ってしまいました。笑。

*****

弓月君、融通王、、、融通念仏宗。。。大阪の秦氏、大数珠回し(おおじゅずまわし)のごとく?少し、繋がってきました。

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経蔵 良忍上人像

大念佛寺は、百万遍念仏(ひゃくまんべんねんぶつ)の大数珠回しでも有名です。

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【参考】良忍上人略伝

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聖應大師・良忍上人略伝

文字起こし)上人は平安時代の終わり頃、建久四年(1072年)尾州知多郡富田荘(現東海市)の領主藤原秦氏の家に生れ、十二歳で比叡山に登り出家した。大いに修行に努めて天台密教の学問を深め、若くしてその学徳は一山に重きをなした。二十三歳の時、真の仏道を求めんと、意を決して山を下り洛北大原に移った。一日六万遍の念仏を唱え苦行を重ね、法華経等あらゆる経典を読破書写し来迎院を開創し、浄蓮華院を復活建立した。上人は生来、美声と音楽才能に恵まれ、声明(しょうみょう、仏教音楽)に励み、当時伝えられていた諸流諸派を統一大成し、声明中興の祖と仰がれている。永久五年(1117年)四十六歳の五月十五日、正午、三昧中に阿弥陀如来より速得往生の道・口承融通念仏の偈文を授かった。この時をもって本宗の開宗と定めている。上人は鳥羽上皇のあつい帰依を受け、上皇下賜の勧進帳と鏡鉦(かがみかね)を奉持し、宮中をはじめとして諸国を行脚し、融通念仏をひろめた。四天王寺に錫(しゃく)をとどめていた時、聖徳太子の霊告を蒙(こうむ)り、大治二年(1127年)摂津平野に根本道場として大念仏寺を創建した。安永二年(1773年、江戸期)後桃園天皇より「聖應大師」の大師業を授与された。

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