はじめに
既に四五百枚以上報告されている #三角縁神獣鏡(銅鏡の縁が三角山形)は中国では発見されていません。また笠松形の紋様も中国には皆無(#王仲殊)であることから国産鏡と考えられます。笠松形の考察 #深江郷土資料館 #ヒミコの鏡
目次
- 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)はヒミコの鏡ではないと考えられる理由
- 中国の王仲殊氏と日本の樋口隆康氏*4の銅鏡対論(1997年ごろ)
- 物証の伴った王仲殊氏の論考
- 笠松形は何をあらわすか?深江郷土資料館 見学で古代妄想
本文
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)はヒミコの鏡ではないと考えられる理由
西暦239年(紀元3世紀)、倭国の女王(ヤマタイコクの)ヒミコが魏に使者を送り、魏の皇帝から 銅鏡百枚 を下賜された*2という記述はたいへん有名ですね。
この百枚の銅鏡が ヒミコの鏡 と呼ばれ、すなわちそれが、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)=魏の銅鏡であるという考え方が戦前の日本の考古学で定説化しました。
銅鏡の縁の断面が三角山形に造られている銅鏡の様式を、三角縁神獣鏡と呼びます。
ところが、百枚限定であるはずの三角縁神獣鏡が、各地の古墳から相次いで出土。
現在までに五百枚以上の数に達しており*3、この事実だけでも、三角縁神獣鏡がヒミコの鏡であると考えることは難しくなっています。
中国の王仲殊氏と日本の樋口隆康氏*4の銅鏡対論(1997年ごろ)
(お二人とも故人)
ざっくり言いますと、中国の王氏が「三角縁神獣鏡は日本で造られた」と主張したのに対し、日本の樋口氏は「当時の日本が魏に依頼して作成した(特鋳説)」と主張した対論になります。
中国の代表的な考古学者が「お宅の国で造られたもんだよ」といい、日本の権威ある考古学者が「いや、これはお宅の国に頼んで造ってもらったんだ」という図式が、なんだかおもしろいですね。
※古代史研究フォーラム「三角縁神獣鏡と邪馬台国」。王氏の基調講演と樋口氏の問題提起、対論の記録より
物証の伴った王仲殊氏の論考
中国銅鏡(主に後漢~三国時代)の研究家である、王仲殊氏の論考には 物証 があります。
それが、先日紹介した 笠松形 。
例えば、鏡作坐天照御魂神社の御神宝鏡の中の、右側の囲った部分が笠松形。
笠のように見える紋様は、すべての鏡にはないですが、三角縁神獣鏡(様式)に特徴的に見られるものです。
王仲殊氏はこれは、中国語で 旄(ほう)と呼ぶ、羽毛などを付けた飾り旗の類の紋様ではないかと考えました。
そして王氏が、この笠松形紋様について 中国で出土したいかなる鏡にも見られない と断言していることはたいへん重要です。
銅鏡には、輸入品を意味する 舶載鏡(はくさいきょう) と、国産品を意味する 仿製鏡(ぼうせいきょう) の分類がありますが、
そのどちらか?ということになれば、三角縁神獣鏡は、多数の出土例と日本オリジナルの笠松紋様を考慮すると、仿製鏡と考えるのが妥当であると思われます。
(樋口氏は笠松形が日本オリジナルであることを十分に認識していたはずで、舶載と仿製の折衷案的な特鋳説を対立案として(討論をすすめるため)あえて立てたように思えます。)
王氏は笠松形の他、大阪の国分茶臼山古墳*5や滋賀県の大岩山古墳から出土した銅鏡に刻まれた「青銅を用い海東に至る」*6の銘文から、中国の工匠が日本に渡来して、日本で製作したという推理もしています。
もちろんすべてではないでしょうが、渡来した工匠が日本で銅鏡を作ったという推理は、日本古代史を考える上で重要な視点です。
笠松形は何をあらわすか?深江郷土資料館 見学で古代妄想
さて、では笠松形はいったい何を表しているのでしょうか。
王氏の飾り旗説はたいへん魅力的で、今のところ、それを否定する材料は皆無。
むしろ笠縫との関係性を考える手掛かりにもなります。
…というところまで考えていたのですが、そこから考察を進めるための材料を見つけることができず、ずいぶん停滞していたものです。
ところが、その手掛かりが、つい最近、ツイッターで地元大阪にあったことを知ったとき、本当に驚きました。
【摂津笠縫氏の郷・笠縫の島跡の深江郷土資料館 見学】
宮殿に同床していたアマテラスとともに倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)を旅立ち、ついに伊勢に至る 元伊勢の旅 伝承の中に手がかりがあるように思います。
旅に出た、つまり遷座する御神体のアマテラスを護るものが笠であると考えるなら、三重の笠松形の下の丸いものは、御鏡体の大鏡(八咫鏡、やたのかがみ)と考えても良いかも知れません。
御笠を、最高の『貴』を守護する神具とする祭式は、現在でも、伊勢神宮の式年遷宮、新天皇即位の儀・大嘗祭(だいじょうさい)といった重要祭祀で見ることができます。