ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【井戸尻考古館】半人半蛙の暗号解読 縄文の世界観と哲学【月と蛙 復活と再生】

はじめに

諏訪八ヶ岳地方・縄文の代表的な展示館のひとつ #井戸尻考古館 で特に惹かれた解説案内がいくつかあり、本記事ではそのひとつ #半人半蛙(はんじんはんあ)が描かれた土器について(全文起こしのため文字数多し)

目次

本文

井戸尻考古館

(35.87818676117157, 138.27693315074296)/長野県諏訪郡富士見町境7053/専用駐車場あり。中央本線富士見駅より約10キロ。車で約15分

井戸尻遺跡を始めとした富士見町の縄文資料を展示しています。

井戸尻考古館は展示量の多さはもちろん、オリジナルでユニークな解説は興味をそそされる内容で、たいへん興味深く、ひとつひとつに魅入ってしまいした。

井戸尻考古館 【左】左奥の建物と赤いソバ畑 【右】隣接する井戸尻遺跡の復元竪穴住居。向こうは南アルプス

半人半蛙が描かれた土器

半人半蛙文 有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)(重要文化財)/藤内遺跡特殊遺構出土/縄文時代中期中葉(藤内Ⅰ式)

半人半蛙文(はんじんはんあもん)とは、人(頭・体・四肢)と蛙(三本指)の特徴を合わせ持ったデザイン(文様)のことです。

井戸尻考古館HPより

この土器の半人半蛙文(井戸尻考古館展示より)

「有孔鍔付土器といえばこの土器」、「この土器といえば有孔鍔付土器」といっても過言ではない一点です。縄文土器土偶には非の打ちどころのない完璧な作品といえるものが稀にありますが、これもそのうちの一つと言えるでしょう。形や文様、粘土や成形などどれをとっても一級品です。

【有孔鍔付】ぐるりに孔があけられ(有孔)鍔のついた(鍔付)土器の特徴

この土器は昭和37(1962)年3月に、井戸尻保存会によって発掘されました。10メートル四方の発掘区の軟質ローム層上面に、15個体余りの土器群が発見されました。住居址と思しき形跡は全く認められず、遺物は7つのグループにまとまり、半数以上の土器がローム層を掘って据え置かれていました。すでに調査されていた住居群に取り囲まれた中に位置しており、一種の祭礼址または墳墓のような遺構と考えられ、特殊遺構 と呼ばれるようになりました。この調査以降、縄文時代の集落であることが分かり、住居域の内側が墓域となっていることが分かったのです。

【左】双環と半人半蛙文【右】双環と環状文(半人半蛙文 有孔鍔付土器)

この土器をよく見てみましょう。3割ほどが欠損しており、欠損部は石膏で復元してありますが、重要な箇所は残っています。丸い頭と半紡錘形の胴体。脚は関節から内またに萎えたふうで、腰からは平行線が発して鉤形に折れ下がっています。上肢は斜めに大きく広げ、途中から分かれた別の腕が大きな身振りで内側に巻いています。三本指の甲は腫れ、指先は器腹(きふく、土器の腹面)に磨(す)り付き、手首には瘤(こぶ)が表され、関節のところはくびれています。 反対側は、双環に接し雄渾(ゆうこん)な環状文が描かれています。それを下手から囲むように凸線が表され、両端が幅広な帯となってくるりと巻いています。半人半蛙文の両脚と気を一にした手法です。両側面には磨(す)りうすに似た形状の幅広い微隆帯が上下に一対表されていますが、片方は下側の形がやや異なっています。こうした文様やその施文方法から藤内Ⅰ式(縄文時代中期中葉)の土器であると思われます。

有孔鍔付土器は縄文時代中期になると、中部・北陸地方に出現し、関東・東北地方まで分布する土器です。中期初頭から中期末まで見られる器形です。甲信地域では中期後葉の中頃に、両耳壺(りょうじこ)という土器に変わっていきます。有孔鍔付土器はその名の通り、口鍔自体に貫通する孔(穴)が穿たれる土器です。鍔と孔があり口が平であるという共通点以外、土器の器形・文様は定まっておらず、大きな樽型のものから小さな広口壺(ひろくちつぼ)まで大きさは様々あり、文様も人体文や蛙文、縄目文だけのものや文様がまったくない無文のものまであります。

この有孔鍔付土器はその特異な形状から長年、「何に使われた土器なのか」という用途に関する論争が繰り広げられました。食べ物の煮炊きに使われる一般的な深鉢形土器とは異なり、有孔鍔付土器には煮沸具として使われた痕跡がなく、出土する事例も深鉢に比べると圧倒的に数が少ないのが特徴です。1964年には八幡一郎や山内清男が皮を張って太鼓として使用していたのではないかという 太鼓説 を唱え、1970年には藤森栄一*1が種入れとして使っていたであろうとする 種子壺説、同年、武藤雄六が酒造に浸かっただろうとする 酒造器(醸造器)説 を唱えました。その後さまざまな研究者によって、他の用途や既存の説の検証などが行われてきましたが、井戸尻考古館では酒造具であると考えています。現在では関東地方東部から縄文時代中期末の事例として、有孔鍔付土器に注ぎ口の付いた「有孔鍔付注口土器」が数例見られることから、液体と何らかの関係のある土器であることが明白となりました。おそらく鍔(つば)には皮蓋を留める機能があり、孔には発酵の際のガス抜きや祭礼の際に飾りを付加する機能があったのでしょう。果実を原料として酒を醸(かも)した可能性が高いと言えます。縄文時代のお祭りの風景が見えてきませんか。

この土器が最も人を引き付ける点が、半人半蛙と呼ばれる文様です。この文様は甲信地域の縄文時代中期の土器図像に散見されますが、解釈が難しい図像の一つです。それは単に蛙が持つ生態的・形態的特徴が持つ意味だけでなくいくつもの意味を持っているからなのです。特に蛙は蟾蜍(せんじょ、ヒキガエル)のイボイボとした肌と月のクレーターとが重ね合わされ、蛙と月は非常に強く結びつきがあります。とりわけ月の光らない暗い部分と蛙に強い結びつきがあります。そして満月から減じて新月となり、三日の暗闇の後に復活して満月へと再生する月の特性が蛙の意味として宿るのです、さらに、蛙の背中の形状は女性器と重ね合わされて、新たな命の誕生を司り、連鎖的に月あるいは蛙が生命を生み出す象徴ともなるのです。そして 蛙は四肢を持つ人間の表現と結びついて半人半蛙文となり、神格化・精霊化する のです。

同時期の縄文土器に見られる三本指の蛙文【上】蛇と人の一体化像【下】(久兵衛尾根遺跡)

半人半蛙の三本指の手首を見ると瘤(こぶ)があります。この瘤は実際の蛙にはない表現です。実は生後しばらくのまるまると肥えた赤ん坊の手の特徴です。蛙の背に女性器が連想されたように、蛙の姿勢などの類似点が赤ん坊と結びつけられているのだと思われます。前述のように、蛙は月と強く結びついています。そうすると、大きくU字形に伸びる腕は三日月を暗示し、手首から分かれて下方に巻く別な両腕は月の生長と減殺(げんさい)の軌道を表すと考えられます。光りはじめる月は西の夕方から発し、東へ移りながら弦の傾きを左に回転させてゆきます。その軌道は東、つまり左方向へのびて蕨手状(わらびてじょう、ぐるぐる)に左に巻きます。つまり左の腕です。満月を過ぎて光り終える有り明けの月は西空から発し、東へ移りながら弦の向きを左へ回転させてゆき、東の空で「後の三日月」となって消えます。その軌道をたどれば蕨手が左巻きに開放して左方へのびます。右の腕です。この場合、凸線と幅広の隆帯の組み合わせは光の増減に対応しているものとみられます。すると、二分された背中も上弦と下弦の月相をも示していると思われます。右半分が南の夕空で光はじめる上弦の月の形、左半分が有り明けの南の空で光り終える下弦の月の形でしょう。

井戸尻考古館HPより

反対側の面は、双環の目と円環の胴体とからなる大柄な蛙の図像といえるでしょう。こちらの面も蛙の胴体だけでなく、月と女性器を暗示 しています。それを下手から抱くような文様であることが、他の土器に描かれた蛙文の事例からわかります。その両端が蕨手状に巻くことの意味は半人半蛙文と同様であります。蛙は暗い月の、胸は三日月の象徴であることから、これらはスコットランド民謡の一節に見られる「新しい月の腕に抱かれた古い月(The old moon in the arm of the new moon)」の表現であると言えます。

女性器の解釈を進めるならば、半人半蛙文の反対側に描かれた大きな円形(円環)は、子どもを宿す子宮にも見えます。

同時代の土器に見られる女性器の表現(久兵衛尾根遺跡)反対側の表現を見てみたいですね

蛙文の持つ意味について紐解くカギは東アジアに見られます。特に古代中国の遺物や書物が参考となります。黄河中流域の仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)や黄河上流の甘粛仰韶文化(かんしゅくぎょうしょうぶんか)の彩陶には蟾蜍(せんじょ、ヒキガエル)と思しき文様が描かれ、半人半蛙の造形となるものがあります。また殷周時代(いんしゅうじだい)の「盤、ばん」と呼ばれる青銅器にも蛙の文様が施されています。

先史世界の蛙と半人半蛙の図像

漢代に入ると、『淮南子、えなんじ』や『霊憲、れいけん』などの書物には蛙と月の話が記されています。『淮南子』には「日中にしゅん烏(しゅんう)あり、月中に蟾蜍あり」との記述があり、後漢末に高誘という人物が しゅん烏は三本足の烏(からす)を、蟾蜍はヒキガエルである と注釈を付しています。また、同じく『淮南子』や後漢の『霊憲』には西王母から羿(げい)に託された不死の薬を姮娥(こうが)が盗んで月に隠れ、これがのちに蟾蜍になったとされています。発見された帛画(はくが、薄い布に描かれた絵)にも月に蟾蜍が描かれており、これら中国古典と同様の表現であることがわかります。

藤原京に立てられた四神・日月・カラスの幢幡(旗竿)※月像は表記に誤り。正しくは樹下のうさぎとヒキガエル

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日本の古典には蛙の話はほとんど見られませんが、不死と月が関連する話があります。『万葉集』には「天橋も 長くもがも 高山の 高くもがも 月よみの持ちたる変若水(をちみず) い取り来て 君に奉りて 変若得(をちえ)しむもの」(天へと通じる梯子がより長く、高い山よりも高くあったらいいのに。月読神(つくよみのかみ)が持っている若返りの水 をいただいて君に差し上げ、若返っていただくのに。)と詠まれていますし、『竹取物語』の終盤では、かぐや姫を迎えに来た天人が持ってきた不死の薬が帝に送られます。やはり、月と不死には密接な関係があるようです

満ちては欠け、新月になっても消滅せずに満月へと再生してゆく月は、当時の人々にとって、復活・再生の象徴であったのでしょう。そこに重ね合わされた蛙ないし半人半蛙文にも同様の意味が暗示されているのです。縄文土器の図像を紐解くと、当時の人々の世界観や哲学が少し見えてきます。

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