大阪城・東南の真田山に『真田幸村の抜け穴』と伝えられる石室状の遺構が残る三光神社(さんこうじんじゃ)。
古事記が伝える、イザナミが居た黄泉(よみ)の国から逃げ帰ったイザナギの禊(みそぎ)から生まれた三貴子を御祭神とするところから「三光」と伝えられる。
三貴子:天照大神(あまてらすおおかみ)、月読尊(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)
由緒には、ふるくは姫山神社と称し、姫山とは『大昔の姫の松原の遺称』と書かれている。
創建は十六代・仁徳天皇から三代後、十八代・反正天皇の時代という。
1945年、終戦年6月の大阪大空襲で神社は焼失、折れた鳥居が今も残されてる(片柱の鳥居)
境内末社には、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代、二百四十五年にわたって仕えたとされる長寿の神・武内宿祢(たけしのうちのすくね)を祀る社があり、その関係で、大阪七福神巡りの寿老人(じゅろうじん)の像がある。
仁徳天皇を祀る社は跡が残っているだけで、御神体は現在、本殿に祀られている。
この社は先日紹介した餌差町の 鎌八幡・円珠庵 あたりにあったそうだが、後にこの場所に遷座したとされる。
三光神社の西側一帯は、広大な「真田山陸軍墓地」。日清・日露・太平洋戦争の戦没兵士らの墓碑・五千百基が整然と並んでいる。
抜け穴は社務所や本殿のある台地の地下に繋がっているようにも思えるが、詳細は分からない。また真田丸跡からは陸軍墓地を挟んで、数百メートル以上離れており、抜け穴であることの真偽もよくわからない。
私は古墳、あるいは、何らかの建物遺構(幻の高津宮?)を疑っているが、社務所で墓地ができる江戸期以前、ここに何があったのかお聞きしてみたが、宮司さんらは首をかしげるばかりであった。