玉造稲荷神社の南、1キロほど下ったあたりに真田山(さなだやま)がある。
その名の通り、真田幸村が、大坂冬の陣で大阪城南側の弱点を補うために構築した『真田丸』跡があるところだ。
その真田丸跡がグラウンド内にある大阪明星学院の西側、餌差(えさし)町の交差点に、本日、紹介する通称・鎌八幡、円珠庵(えんじゅあん、真言宗豊山派)がある。
大阪では縁切り寺として知られ、表の看板にも『悪縁を断つ寺』と書かれている。
円珠庵の前の通りはふるくは三韓坂と呼ばれ道脇に御神木と祠があったそうで、いつの頃からかその御神木に向かって「鎌八幡大菩薩」と唱えながら、鎌を突き刺すと、願いが叶うという信仰があったそうだ。
そこに、幸村として知られた真田信繁が、真田丸での戦勝を祈願して鎌を突き刺したところ、冬の陣では徳川方を手玉にとり勝利。真田幸村は、戦勝後にあらためて、祠を建て替えたと伝えられる。
鎌八幡大菩薩が「悪縁を断つ」信仰に変わったのは、江戸期と考えられる。
平和な時代、武士が武勲や戦勝を祈ることもなくなり、市井の庶民(主に女性)が気持ちの赴くままにグサッグサッとやっているうちに、口コミで、縁切りに変わっていったのだろうか。
寺内は撮影厳禁だったが、幸いにも?大阪歴史博物館に鎌と模型、写真が展示されている。
仁徳天皇の社跡?
同じ真田山にある三光神社(さんこうじんじゃ)の由緒略歴に、末社・仁徳天皇社のことが『餌差町円珠庵に仁徳天皇の社あり、当時西の方、地形低く真田山に遷し奉る』と書かれていた。
円珠庵の小さな寺内には、社らしきものはなかったが『大黒天』と彫られた古い石碑がひとつ建っていた。
古い時代に伝承された御神木と祠(鎌八幡大明神)、あるいはそのもとが、仁徳天皇社だったのかも知れない。
今は、仁徳天皇社と云えば、円珠庵よりも二キロほど南西の高津宮(高津神社)だ。
高津宮は大阪城築城の際に現在地(大阪市中央区高津)に遷座しており、元々どこにあったのか分からなくなっているが、鎌八幡あたりだったのだろうか。