ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【2022年 祇園祭(前祭)】巡行直前 山鉾23町 早朝からの準備の様子

はじめに

本日7月17日は3年ぶり #祇園祭 #前祭 #山鉾巡行。鉾7・山14・傘2、全23基の各山鉾町の巡行直前、早朝からの準備の様子を見学してきました。2022年の巡行順に紹介(写真91枚)【0718】各御由緒追加。案内板写真または祇園祭山鉾連合会HPより

目次

本文

(くじ取らず)長刀鉾なぎなたぼこ)

長刀鉾

長刀鉾

鉾先きに大長刀をつけているのでこの名で呼ばれる。長刀は疫病邪悪をはらうものとして、もと三条小鍛冶宗近の作が用いられていたが、現在は大永二年(1522)三条長吉作の長刀を保存し、複製品を鉾頭としている。この鉾は古来「くじとらず」といい毎年必ず巡行の先頭にたち、生稚児の乗るのも今ではこの鉾だけである。真木のなかほどの「天王座」には和泉小次郎親衡の衣裳着の人形を祀っている。屋根裏の金地著彩百鳥図は松村景文(1779~1843)の筆、破風蟇股の厭舞と小鍛冶宗近が神剣を造る姿の木彫胡粉彩色の彫刻は片岡友輔の作である。前懸はペルシャ花文様絨毯、ペルシャ絹絨毯(古)、胴懸には中国玉取獅子図絨毯、十華図絨毯、梅樹図絨毯、中東連花葉文様インド絨毯など16世紀~18世紀の稀少な絨毯が用いられていたが、現在はその復元品を使用。見送は雲龍波濤文様綴織が平成17年に復元新調されている。平成20年度に下水引全面の新調が完了した。

(山1番)孟宗山(もうそうやま)

孟宗山

孟宗山

「筍山」ともいう。山に飾る御神体(人形)は中国の史話二十四孝から取材。病身の母を養う孟宗が、雪の中で筍を掘りあてた姿をあらわしている。人形は七条大仏師康朝左京の作といわれ、唐人衣裳に笠をつけ右手に雪をかぶった筍、左手には鍬を肩にかついで立っている。欄縁の彫金群鳥図の金具は幸野楳嶺(1844~1895)の下絵、見送はかつて雲龍文様の綴錦を用いていたが、昭和15年以来竹内栖鳳筆の白地墨画竹林図のものが用いられている。この地味な墨画の見送は、極彩色豊かな他の山鉾のなかにあって、かえって異彩をはなっている。また、平山郁夫筆の胴懸「砂漠らくだ行(日)」「砂漠らくだ行(月)」は、平成20年、21年に新調された。

(山2番)保昌山(ほうしょうやま)

保昌山

保昌山

(山3番)郭巨山(かっきょやま)

郭巨山

(くじ取らず)函谷鉾(かんこぼこ)

函谷鉾

函谷鉾

鉾の名は中国戦国時代(前403~221)斉の孟嘗君が鶏の声によって函谷関を脱出できたという故事にちなんで付けられている。鉾頭の月と山型とは山中の闇をあらわし、真木のなかほどの「天王座」には孟嘗君、その下に雌雄の鶏をそえている。屋根裏の金地著彩鶏鴉図は今尾景年(1845~1924)の筆、前懸は、旧約聖書創世紀の場面を描いた16世紀末の毛綴で重要文化財を平成18年復元新調している。水引は山鹿清華作の手織群鶏図、胴懸は梅に虎を織り出した17世紀李氏朝鮮絨毯、花文様インド絨毯、玉取獅子図中国絨毯の三枚である。見送は古く弘法大師筆と伝える紺地金泥の金剛界礼懺文と天保年間(1830~43)にこれを模織した立派なものがあるが最近に皆川泰蔵作「エジプト天空図」を新調した。この鉾は天明の大火(天明8年、1788)で焼失、50年後の天保10年(1839)に再興され、それ以後「嘉多丸」という稚児人形を用いている。

イサクに水を供するリベカの図(前懸)。16世紀のベルギーで織られたタペストリーで重要文化財。(以下公式より)原品は十六世紀末ベルギー製、旧約聖書創世紀第二十四章の説話より取材したアブラハムの子「イサクの嫁選びの図」図柄は娘リベカからアブラハム家の老僕エリアザルが所望の水を受けるところ、右上には騎馬に乗ったイサクの姿が見える。

(山4番)白楽天山(はくらくてんやま)

楽天

楽天

唐の詩人白楽天が道林禅師に仏法の大意を問うところである。道林禅師は、緞子地の紫衣を着け、藍色羅紗の帽子をかぶり手に数珠と払子を持ち松の枝の上に座し、白楽天は唐織白地狩衣の衣裳に唐冠をかぶり笏を持って立っている。旧水引は明治5年の調製で孔雀や麒麟などの禽獣を金絲で繍いつめた刺繍、また前懸は文化5年新調された紺地雲龍文様刺繍裂と、万延元年(1860)蟷螂山より買受けた毛綴の三点継もある。毛綴はトロイ城陥落のときアイネイアスが父を救出する図の優品であり、大津祭月宮殿山の見送と双幅である。見送はかつて麒麟龍鳳凰文様の綴錦であったが、昭和28年より山鹿清華作の北京万寿山図の毛織錦のものを用いている。また胴懸及び水引は昭和53年フランスから購入した17世紀製作の毛綴もある。

(傘1番)四条傘鉾(しじょうかさぼこ)

四条傘鉾

(山5番)油天神山(あぶらてんじんやま)

油天神山

油天神山

火尊天満宮

古くから町内(風早町)に祀られていた天神を勧請して作られた山で、油小路綾小路下ルにあるところから、「油天神山」とも、また勧請の日がちょうど丑の日にあたっていたので「牛天神山」とも呼ばれる。山は正面に朱の鳥居を立て金箔置の社殿にはもと風早家に伝来し後に町内の祠に祀っていた天神像〔寛永7年(1630)製作〕を安置する。真木の松の他に紅梅の枝をはなやかに立て鈴をつけている。水引はパリのクリュニイ博物館所有のタピストリーを図案に用いて、平成18年新調、前懸は雲龍文様の繻子地錦、宵飾りの胴懸は19世紀のカザフ絨毯、見送は毛綴の宮廷宴遊図であったが平成2年梅原龍三郎氏原画の「朝陽図」綴織を、前懸は平成6年に龍図錦織を新調、胴懸は左右共に前田青邨原画で、平成12年・13年新調の紅白梅を用いる。欄縁は、前部だけ凹形に切り込んだ社殿をはっきり見せたもので、天保4年(1833)製作の牛と梅の錺金具がついている。

(鉾1番)月鉾(つきぼこ)

月鉾

鉾頭に新月型(みかづき)をつけているので、この名で呼ばれる。 真木のなかほどの「天王座」には月読尊を祀る。古い鉾頭と天王の持つ櫂には「元亀4年(1573)6月吉日大錺屋勘右衛門」の刻銘がある。また正徳4年(1714)の鉾頭もあるが昭和56年から田辺勇蔵氏寄進の18金製の鉾頭にかえている。屋根裏の金地彩色草花図は天明4年(1784)円山応挙(1733~95)の筆。天井の金地著彩源氏五十四帖扇面散図は天保6年(1835)に町内の住人岩城九右衛門の筆。破風蟇股の彫刻は左甚五郎の作と伝えられる立派なものである。軒桁貝尽しの錺金具は松村景文(1779~1843)の下絵、四本柱の錺金具、破風飾の金具などはいずれも華麗なもので山鉾のなかでも最高のものである。天水引の霊獣図刺繍は天保6年(1835)円山応震の下絵である。前懸、後懸は華麗なインド絨毯、胴懸はインドやトルコの絨毯を用いており、北面の「中東蓮花葉文様」は平成22年(2010)に、南面の「幾何菱文様」は平成23年(2011)に復元新調された。近年下水引は皆川月華作の花鳥図に、見送も同作の湖畔黎明図にかえている。また、平成12年(2000)には前懸のインド絨毯も復元された。

(山6番)蟷螂山(とうろうやま)

蟷螂山

蟷螂山

蟷螂山は、「蟷螂の斧を以て隆車の隧を禦がんと欲す」という中国の故事にちなんでいる。その起源は南北朝時代で、足利義詮軍に挑んで戦死した当町在住の公卿、四条隆資(1292~1352)の戦いぶりが「蟷螂の斧」のようであったことから、渡来人で当町居住の陳外郎大年宗奇が卿の死後25年目の永和二年(1376)、四条家の御所車にその蟷螂を乗せて巡行したのがはじまりといわれる。 その後、蟷螂山は再三の戦火に遭うが、そのつど再興され、巡行を続けてきたのであるが、元治の大火(1864)でその大部分を焼失してしまい、昭和56年、117年ぶりに再興された。 蟷螂山の特徴は、かまきりと御所車の車輪が動くなど、祇園祭の山鉾としては、唯一のからくりが施されていることである。前懸、胴懸、見送は共に羽田登喜男作の友禅で、瑞苑浮遊図などがある。

(山7番)山伏山(やまぶしやま)

山伏山

山伏山

この名は山に飾る御神体(人形)が山伏の姿をしているのでこう呼ばれる。昔八坂の法観寺の塔が傾いたとき法力によってそれをなおしたという浄蔵貴所の大峯入りの姿をあらわしている。左手に刺高数珠、右手には斧を持ち腰には法螺貝をつけている。欄縁金具は飛鶴、水引は機織図を描く綴錦、前懸は雲龍文様の刺繍、胴懸は花卉胡蝶文様の綴錦を用いている。見送は龍波濤文様の綴錦で、平成11年に復元された。巡行の数日前より聖護院の山伏たちの巡拝があり、また八坂神社からの清祓も行われ、神前に供える三宝も仏式の黒塗のものが用いられている。明治初年の神仏分離以前の姿をこの山にみることができる。

(山8番)霰天神山(あられてんじんやま)

霰天神山

霰天神山

錦小路通室町西入にあるので「錦天神山」または「火除天神山」ともいわれる。永正年間(1504~1520)京都に大火のあったとき、時ならぬ霰が降り猛火はたちまちに消えたが、そのとき一寸二分(約3.6センチ)の天神像が降ってきたのでこれを祀ったのがこの山の起こりであるという。山の上には欄縁にそって朱塗り極彩色の廻廊をめぐらし、中央に唐破風春日造の神殿を安置する。前懸は16世紀にベルギーで製作された「イーリアス」物語を描いた毛綴を用いているが(平成21年復元新調)、中国刺繍の太湖岩鳳凰図もある。左右の胴懸は上村松篁(昭和60年新調)、上村淳之(平成14年新調)親子の原画花鳥綴織で、後懸は「紅地雲龍宝尽図」(平成21年新調)が用いられている。山の縁起にちなみ宵山には「火防せ、雷除け」の御守が授与される。

(鉾2番)鶏鉾(にわとりぼこ)

鶏鉾

鶏鉾

中国の史話より取材、昔、唐堯の時代に天下がよく治まり訴訟用の太鼓(諫鼓)も用がなく苔が生え鶏が宿ったという故事によって、その心をうつしたものという。鉾頭の三角形の中の円形は鶏卵が諫鼓の中にある意味で、鶏鉾の名の象徴となっているともいわれるが、はっきりしたことは不明である。真木のなかほどの「天王座」には航海の神といわれる住吉明神を祀る。天水引は下河辺玉鉉、下水引は松村呉春(1752~1811)、松村景文(1779~1843)など四条派画家の下絵になるものである。前懸のペルシャ絨毯、胴懸の草花文様インド絨毯は、近年復元新調されて用いる。見送は有名な毛綴で近年の調査によるとトロイの皇子へクトールが妻子に別れをつげる図であるという。この見送は、16世紀頃ベルギーで製作、江戸時代初期に輸入されたものと考えられ、国の重要文化財に指定されている。

(山9番)木賊山(とくさやま)

木賊

木賊

謡曲木賊」に取材し、我が子を人にさらわれて一人信濃国伏屋の里で木賊を刈る翁をあらわしている。御神体(人形)は腰に蓑をつけ、左手に木賊、右手に鎌を持つ。木彫彩色の頭は仏師春日の作といわれ、足台には「元禄五年(1692)六月吉日」の墨書銘がある。水引は日輪鳳凰文様の綴錦及び道釈人物刺繍、前懸は唐人交易図刺繍、左右の胴懸は平成11~13年に復元新調した中国故事人物図の綴織、見送は中国明代の牡丹双鳳文様綴錦である。欄縁金具は緻密な雲龍文様で、角金具は唐団扇、木賊と銀兎文様のものが用いられている。旧見送として仙人聞香図の綴錦があり、旧水引には中東幾何文様イギリス織絨毯、他に緑地草花文様の後懸などが保存されている。

(傘2番)綾傘鉾(あやがさぼこ)

綾傘鉾

大原神社

綾傘鉾(人形はミニチュア)

綾傘鉾は、山鉾の非常に古い形態を残している傘鉾の一つで、大きな傘と棒振り囃子の行列として巡行していた。この綾傘鉾も、江戸時代の天保5年(1834)、一時小型の鉾に改造されるが、元治元年の大火で、その大部分を焼失することになる。その後、明治12年から17年まで原型の徒歩ばやしの形で巡行したことがある。棒振り囃子は、赤熊をかぶり、棒をもった者が、鉦、太鼓、笛に合わせて踊るもので、壬生村の人々により奉仕されていた。この綾傘鉾も町内の人々の努力が実り、昭和54年から巡行することになった。なお、傘につける垂りは人間国宝の染織家森口華弘の友禅「四季の花」と平成4年に町在有志の寄贈になる綴錦「飛天の図」がある。

(山10番)占出山(うらでやま)

占出山 御神体 神功皇后

占出山

占出山

「鮎釣山」ともいう。神功皇后肥前国松浦で鮎を釣って戦勝の兆としたという説話による。御神体(人形)は金の烏帽子に太刀をはき、右手に釣竿、左手に釣り上げた鮎を持って立つ。神功皇后は古くから安産の神として祀られ、山鉾巡行の鬮順が早いとその年はお産が軽いといわれる。安産の神として公家の信仰も厚く女院や公卿の姫君などから寄進された小袖や打掛・水干などが多数御神体衣裳として保存されている。水引は三十六歌仙図の刺繍。前懸・胴懸は日本三景の綴錦で天保2年(1831)の制作。このうち山口素岳の松島図下絵は別に保存されている。見送には花鳥龍文様の綴錦が用いられ、近年それらを復元新調した。宵山には安産の御守りと腹帯とが授与される。

(鉾3番)菊水鉾(きくすいぼこ)

菊水鉾

菊水鉾

菊水鉾

町内に古くからあった井戸、菊水井にちなんで名付けられ、鉾頭には金色の透かし彫の菊花をつけている。真木のなかほどの「天王座」には彭祖像を祀る。元治元年(1864)の兵火で焼失したが昭和27年、88年ぶりに松本元治氏の熱意が実り再興され、28年6月完工祭が行われた。稚児人形は菊の露を飲んで長寿を保ったという枕慈童で能装束の舞姿である。屋根は唐破風造りで、彫師海老名峰彰作の鳳凰の懸魚を飾り、軒下に翠簾を掲げるところは特に他の鉾と異なっている。昭和29年には皆川月華作唐獅子図の胴懸、飛鶴図の前懸が作られ、30年には月華作孔雀図の豪華な見送が完成。その後山鹿清華作の下水引、皆川泰蔵作の二番水引が加えられ、38年には三輪晁勢筆天井絵が、近年、小林尚珉氏によって錺金具が製作された。また、最近晁勢筆の天水引、月華作の下水引、岩澤重夫筆の深山菊水図綴織見送があらたに完成した。このようにして、菊水鉾は年々装飾が充実し、「昭和の鉾」としての偉容を示してきている。

(山11番)蘆刈山(あしかりやま)

蘆刈

蘆刈

(山12番)伯牙山(はくがやま)

伯牙山

伯牙山

「琴破山」ともいわれる。山の御神体(人形)は中国の周時代、琴の名人伯牙とその友人鍾子期との物語に取材、伯牙が鍾子期の死を聞いてその琴の絃を断ったという故事をあらわしている。人形は手に斧を持ち前に琴が置かれている。人形には「金勝亭賽偃子」の墨書銘があり、天明以降の作と考えられている。前懸には上下詩文、中央に人物風景の有名な「慶寿裂」をかけその下に龍文様の錦を用い、さらに人物図の押絵切付の水引によって飾っている。胴懸は花卉尾長鳥文様の綴錦で、見送には「柳絲軒」在銘の仙人図刺繍を用いている。蝶型の角金具は珍しい意匠である。

(山13番)太子山(たいしやま)

太子山

太子山

太子山

太子山

(くじ取らず)放下鉾(ほうかぼこ)

放下鉾

放下鉾

鉾の名は真木のなかほどの「天王座」に放下僧の像を祀るのに由来する。鉾頭は日・月・星三光が下界を照らす形を示し、その型が洲浜に似ているので別名「すはま鉾」とも呼ばれる。かつては長刀鉾と同様「生稚児」であったが昭和4年以降稚児人形にかえられている。稚児人形は久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名せられ巡行の折には稚児と同様、鉾の上で稚児舞ができるように作られている。この鉾は明治の中期に胴組、天井、柱、屋根などが大改装され、金具類も順次整備された。破風正面の三羽の丹頂鶴(後面二羽)は幸野楳嶺(1844~95)の下絵を高浮彫し大正6年に完成したものである。下水引与謝蕪村(1716~83)下絵の琴棋書画図であったが平成6年から栂尾高山寺の国宝華厳宗祖師絵伝を下絵にした綴織になっている。三番水引の青海波におしどり図綴織は駒井源琦の下絵によるものだが今はその復元品を用いている。前懸・胴懸には花文様のインドやペルシャの絨毯がある。見送は文政11年(1828)京都西陣で作られたものである。旧胴懸として16世紀製の描絵玉取獅子、牡丹、鶴文様の朝鮮毛綴が保存されている。平成22年(2010)には天井幕「四季草花図」(原画・柴田是真)が新調された。

(くじ取らず)岩戸山(いわとやま)

岩戸山

岩戸山

岩戸山

岩戸山(ミニチュア)

天岩戸を開いて天照大神の出現される日本神話から取材している。山とはいえ室町時代狩野永徳洛中洛外図屏風で見られる岩戸山にはすでに車輪が描かれており鉾と同じ車をつけた曳山である。曳山で、鉾柱のかわりに屋上に真松を立てている。三体の御神体(人形)を飾るが、天照大神は白衣姿で胸に鏡をかけ、脇に安置される手力雄尊(戸隠大明神)は白衣に唐冠をかむり、屋根の上には太刀をはき天瓊矛をつき出した伊弉諾尊を安置している。屋根裏の金地著彩草花図は今尾景年(1845~1924)73歳の筆、前後軒裏の金地著彩鶺鴒図は弟子の中島華鳳筆(昭和6年)である。下水引鳳凰瑞華彩雲岩に波文様紋織(平成15年復元新調)、二番水引は緋羅紗地宝相華文様刺繍、三番水引は紺金地雲三ツ巴五瓜唐花文様綴織(共に平成17年復元新調)、前懸は玉取獅子図中国絨毯、胴懸は唐草文様インド絨毯である。別に旧前懸として17世紀李朝製で描絵玉取獅子、鳳凰、虎、鶴文様の朝鮮毛綴のものが保存されている。見送は日月龍唐子嬉遊図の綴織(一部刺繍)を用いている。ほかに皆川泰蔵作の「ヴェネチァ図」がある。また、平成23年には天井幕「白茶地五彩瑞雲文様」が新調された。

(くじ取らず)舩鉾(ふねぼこ)

舩鉾

舩鉾

舩鉾

神功皇后をめぐる説話によって鉾全体を船の型にし、舳先には金色の鷁、艫には黒漆塗螺鈿の飛龍文様の舵をつけ、船端には朱漆塗の高欄をめぐらし、唐破風入母屋造りの屋根からは紅白の長旒・吹流しをひるがえす。鉾の上には皇后と陪従する磯良・住吉・鹿島の三神像を安置する。主神神功皇后は神面をつけ緋縅の軍装、その後に鹿島明神、舳先には、海神安曇磯良が龍宮の満干珠を住吉明神に捧げている。皇后の神面(文安年間作、1444~1448)は古来安産に奇瑞があるといわれ、宮中でも尊敬され、明治天皇の御降誕の時には宮中へ参内している。皇后の神像は岩田帯をたくさん巻いて巡行するが、それを祭りの後、妊婦に授与され安産のお守りとされている。また、神功皇后衣裳の水干「金地菊花文様唐織」と大口袴「白地御簾文様金襴」は平成22年(2010)に新調された。鷁は宝暦年間(1751~64)長谷川若狭の作で、船尾の舵は寛政4年(1792)に造られた。水引の雲龍図肉入刺繍の下絵は西村楠亭(1775~1834)の筆、鹿島明神の持つ長刀は、井上和泉守真海(寛文年間1661~1672)作の逸品である。また平成21年(2009)に高欄下水引が新調された。

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