一般公開(皇居東御苑)が12月8日(日)で終了した大嘗宮(だいじょうぐう)。
南神門(黒木鳥居)から向こう(北)側、柴垣で囲まれた所は「聖地」で、柴垣は「聖地」を守る結界になっている。
結界の内側、東側に「東日本を象徴する悠紀殿(ゆきでん)」、西側に「西日本を象徴する主基殿(すきでん)」が配置される。
野宮神社の結界
この結界の組み方は、京都・嵯峨野の野宮神社も踏襲している。
神様(天照大神)にお仕えするための祓いや清めの意味では、最高レベルのもの。
『天皇の代理で伊勢神宮にお仕えする斎王(皇女、女王の中から選ばれます)が伊勢へ行かれる前に身を清められたところです。嵯峨野の清らかな場所を選んで建てられた野宮は、黒木鳥居と小柴垣に囲まれた聖地でした。』
3種の植物(クヌギ、クロモジ、スダジイ)
ひとつめは、クヌギの木の皮を剥かないまま造られた黒木鳥居。
野宮神社のページにも書かれているが、日本最古の鳥居の様式。
ふたつめは、クロモジの柴垣。クロモジは通称で、クスノキ科のテンダイウヤク(天台烏薬)のこと。
中国南部の天台山地方(最澄さんが遣唐使として学んだところ)の産地が有名で中国原産説があるが、実は日本でも紀州熊野、四国・九州に自生している。樹皮に「黒文字」のような模様があることから、名付けられたという。
根や茎に甘い芳香があり「薫香材(ウッディアロマ)」として使用される他、有名な薬用養命酒(ようめいしゅ)には烏樟(ウショウ)として配合されている。
「熊野で烏」と聞いてピンと来る人、妄想する人はマニアだ(笑。鳥の字とは違う)
みっつめの植物。2枚目の写真で、柴垣に架けられているのは「スダジイ」。
縄文海人の末えい、大和の国栖人(くずびと)
大嘗祭は第40代天武天皇(在位673~686年)の時に一世に一度行われる皇位継承儀式として定められ、以来、
大嘗宮は儀式書『貞観儀式』(9世紀後半に成立)などに沿った方法で設営される(宮内庁資料より)
宮内庁の図面をみると、国栖人(くずびと)が南神門(黒木鳥居)を固める格好になっている。
これは応神天皇が吉野宮へ行幸した際、大和の国栖人が来朝し、酒を献じて歌ったという故事(日本書記・応神天皇19年の条)にならったものと考えられている。
しかし、次のような史実(伝承)がある。
「(奥明日香の入谷(にゅうだに)には)大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)を支持する海人族が住んでいたとされ、皇子は彼らに吉野行の相談をしたり、協力を求めていたとされる。海人族は漁、航路に優れた技術をもっていたとされるが、米作り、水銀採取も行った多彩な一族であったようである」(明日香村の大字に伝わるはなし(民俗伝承本)より)
過去記事「丹のとれる所、海人族のムラ、吉野~飛鳥の中継点」より
海人族とは国栖人のことで、ゆえに国栖人は縄文海人の末裔と考えてよいだろう。
天武天皇は海人の末裔たちの全面的な協力で、吉野を拠点に壬申の乱(じんしんのらん、672年)で大友皇子に勝利、現在に続く天皇制を確立した
大海人皇子の時代でも、国栖人は海・山を駆け巡り、クヌギやスダジイなどのドングリ類を食べていただろう。
天武天皇にとっての道標「ヤタガラス」は国栖人だ。
大嘗祭について(宮内庁、令和元年10月2日)PDF資料
式次第など、詳細が書かれています。興味のある方はリンク先をご覧ください。
https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/shiryo/tairei/pdf/shiryo011002-7.pdf