世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない。ここでは、特に美しい生がいを送った人について語りたい。緒方洪庵のことである。
で、始まる司馬遼太郎さんの『洪庵のたいまつ』。小学5年生の国語教科書(1995年)向けに書かれたものを、一部交えながら、江戸時代末の日本の西洋医学の夜明けと緒方洪庵先生について紹介したいと思う。
(『洪庵のたいまつ』の全文はネットで検索すれば読めます)
洪庵は備中(今の岡山県)の人である。・・・江戸時代、足守藩という小さい藩があって、緒方家は代々そこの藩士だった。父が藩の仕事で大坂に住んだために、洪庵もこの都市で過ごした。
こどもの頃から病弱だった洪庵先生、自分への歯がゆさとともに、しかし、人が健康であったり、病気になったりすることを考えた。そしてそれがバネとなり、当時、最新だった蘭方医学(蘭学)を学ぶようになったという。
人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。
その後、洪庵先生、大坂、江戸、長崎と師を求めて渡り歩き、29才の時に大坂に戻り、診療所と塾を開いた。
あの有名な適塾(てきじゅく)だ。
ほぼ同時に結こんもした。妻は、八重という、やさしくて物静かな女性だった。考え深くもあった。八重は終生、かれを助け、塾の書生からも母親のようにしたわれた。
すばらしい学校だった。入学試験などはない。どの若ものも、勉強したくて、遠い地方から、はるばるとやってくるのである。・・・さむらいの子もいれば町医者の子もあり、また農民の子もいた。ここでは「学問をする」というただ一つの目的で結ばれていた。
熟生の全部の代表として、塾頭というものがいた。ある時期の塾頭として、後に明治陸軍をつくることになる大村益次郎がいたし、また別の時期の塾頭として、後に慶應義塾大学のそう立者になる福沢諭吉もいた。
適塾は今も保存され、見学ができるようになっている(大阪市中央区北浜3丁目3−8)
いわゆる、古い大坂・船場あたりに多かった町屋(まちや、大阪弁でまっちゃ)で、二階部分が低く見える造りが特徴。大阪人というのは今も昔も”せわしない”人(=年がら年中バタバタしてるイメージ)が多く、屋内の間取りを少しでも広く取るために、足を滑らしたら「真っ逆さまに落ちる」階段を利用していたのも今は昔の話。塾生たちはそんな部屋で、ひしめきあって暮らしていたという。
福沢諭吉は、当時を思い出して「ずいぶん罪のないいたずらもしたが、これ以上できないというほどに勉強もした・・・適塾にいる間、まくらというものをしたことがない。夜はつくえの横でごろねをしたのだ。」
塾生たちは、ここで雑魚寝していた。個人的に『坩堝の部屋』『たいまつの柱』と名付けたい。若いうちに一度着いた心の火は消えることはない。
弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかと輝いた。やがてはその火の群れが、日本の近代を照らす大きな明りになったのである。後世のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。