古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
1400年前の古墳時代末頃、現在の大阪市内主要エリア(キタ・梅田、ミナミ・難波)は上町半島西側の「海底」。
飛鳥時代まで大阪の古代史は、瀬戸内海と(旧)河内湖に挟まれた、南北に長い柄のような上町半島(現・上町台地)が舞台でした。
難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)という飛鳥時代の都がありましたが、読んで字の如く「長い柄の(伸びる)先端にある宮)つまり、現在の大阪城から先のどこかにあったことが推定され、現在、それが孝徳天皇(第36代、軽皇子)の前期難波宮跡と考えられています。ちょうど大阪城外堀の南に接したあたりです。
*詳しい地形は本記事末の地図をご覧ください
日羅公・埋葬地の推理
さて、本記事のテーマ、日羅公の埋葬地(難波小郡西畔丘前、なにわのおごおりのにしのほとりのおかさき)はどこでしょうか?
グーグル航空写真に、日羅公関係の史跡をプロットし、当時(古墳時代末)の海岸線を描いてみました。
まず、将軍地蔵尊の碑が伝える「大阪城の東・杉山地区」は「西畔」ではないので違うでしょう。
「にしのほとり」にあたるのは日羅公の碑がある淀川支流の大川・源八橋付近(天満同心町)です。もちろん、この地の比定には、それなりの考察があります。
しかし、日羅が暗殺された場所は、敏達天皇(第30代、訳語田おさだ、后は炊屋姫、後の推古天皇)の河内の別邸(小郡の難波館)ですが、問題は、天満の同心町周辺に難波館跡らしきものが見当たらないことです。
でもうひとつ、西のほとりを探してゆくと。。。
結論から言いますと、難波館跡は、上町半島をずっと南に下った、主祭神が(日羅を招聘した)敏達天皇の五条宮(大阪市天王寺区真法院町)。地図では、将軍地蔵尊と四天王寺の間に位置します。
で、五条宮の西南方向(約2キロ)古代の岬にあたる所に、茶臼山古墳があり、ここが日羅公が、肥後熊本に改葬されるまで埋葬されていた『難波小郡西畔丘前』と、かなり本気で妄想しています。
なお、将軍地蔵尊は昭和28年に現在地(大阪市天王寺区上本町)に移転再建されましたが、その理由は、おそらく私と同じ、五条宮との位置的な関係を根拠にしているものと思われます。
古来「荒墓」と云われた茶臼山古墳
丁未の乱(587)、大坂冬の陣・夏の陣(1614~15、真田丸は真田山の古墳を利用して構築)、太平洋戦争の空襲(1945)などの破壊により、天王寺区にあった多数の古墳のほとんどが消え、わずかばかり残っている、そのひとつが茶臼山古墳です。
今では、茶臼山は、冬の陣・徳川家康の本陣、夏の陣・真田幸村の陣として有名ですが、古来「荒墓、あらはか」と称された古墳があったとされています。
もちろん被葬者は不詳です。埋葬者が改葬され、主が居なくなり、古墳が荒れ放題だったのかも知れません。
ただ古くは、御荒れ、みあれ、御生れ→生まれるという意味もあります。古墳時代まで前方後円墳は再生装置・再生埋葬様式と捉えられており、それで名付けられた可能性もあります(御荒れ墓=前方後円墳。方墳・円墳ではそういう観念は弱そう)
もし茶臼山古墳が前方後円墳であれば、少なくとも西日本では、ほぼ最後に造られた大型の前方後円墳と考えられます。
ちなみに最後は、敏達大王の太子西山古墳と考えられます(大阪府太子町、磯長谷(しながだに)古墳群唯一の前方後円墳)
『荒墓、荒陵』で繋がる四天王寺さん
山号は荒陵山(こうりょうざん、あらはかやま)と言います。
正式な名称は『荒陵山 四天王寺』です。(続く)