昨日の続きです。
茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し
「真田は日本一の兵(つわもの)。真田の奇策は幾千百。そもそも信州以来徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。女も童もその名を聞きて、その美を知る。彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。前にいるかと思えば後ろにいる。真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。合戦場において討死。古今これなき大手柄」
夏の陣で幸村の武神ぶりを目の当たりにした島津家当主・島津忠恒の手紙の内容にはこう記されていました。大坂の夏の陣の後、家康は首実検(討ち取った敵の首を確かにそのものの首かどうか大将が自ら検査したこと)の際に、「幸村の武勇にあやかれよ」というと、居並ぶ武将たちがこぞって遺髪を取り合ったそうです。家康は「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸場内にて幸村を誉め讃えることを許す」としたそうです。これは極めて異例なことであり、その幸村の戦いぶりに同じ戦国武将として感嘆していたのでしょう。
又、兄の信之は「柔和で辛抱強く、物静かで言葉も少なく、怒り腹立つことはなかった」と語っています。戦場の幸村のイメージとはかなり異なりますが、普段は温厚なのに戦では我が身を張って強烈なリーダーシップを発揮するそんな幸村の人柄に惚れ集まった浪人集は多くその結束力は強かったようです。事実戦局不利と見るや身内でも裏切り者が珍しくない戦国の世に幸村の家臣は誰も降参しなかったと言われています。これも幸村の高い人徳の賜物でしょう。
庶民からも歌舞伎・講談のヒーローとされましたが幕府はこれを禁じなったそうです。保身や利害よりも武士としての誇りを身をもって体現した本物の侍。武士があこがれた武士。それが真田幸村です。戦いに敗れた武将がこれだけ英雄としてとりざたされるのはおそらく幸村ぐらいでしょう。
関東勢百万も候へ、男は一人もいなく候
戦国時代の最後の戦い【天王寺口の戦い】幸村公四十七才
・・・最後の戦いの舞台となったこの茶臼山での「天王寺口の戦い」においても、幸村(47才)はその武将としての才能を遺憾なく発揮し、わずか三千五百の兵で一万五千の越前隊を相手に真っ向勝負を挑み徳川家康の本陣に突撃し、武田信玄に三方ヶ原で敗れて以来一度も倒されたことがなかった家康の馬印を倒し家康に自害を覚悟させるほど追いつめたといわれています。
しかし時間と共に兵力の少ない豊臣方は劣勢に陥り、真田隊も安居神社まで軍を引かせます。幸村は神社の境内で傷ついた体を休めていたところ松平忠直の部隊に発見され、西尾仁左衛門という武将に打ち取られました。この時「我が首を手柄にせよ」と敵に告げたそうです。幸村らしい潔い最後と言えるでしょう。
武将としての誇りを持って戦った幸村の奮闘ぶりはすさまじく、敵方の武将たちの間でもその名は知れ渡りました。戦国時代の最後の戦いを飾った武将として伝説化したため美化された部分も多いと言われていますが、すでに天下人であり圧倒的に有利な状況にいた家康の本陣を幸村が突き崩したのは事実であり、その雄姿が人々に痛快さを感じさせたのでしょう。
今の時代に幸村が再びスポットを浴びるのは、自分の道を貫き通したその男としての生き様が注目されているからかもしれません。私利私欲に溺れるのではなく受けた恩義を大切にし、芯を持って決してぶれることなく己の使命を全うし自分より大きく強いものに真正面から立ち向かっていく潔さと、分厚いまっすぐな強さが今も昔も人々の心をつかんではなさないのかもしれません。