まとめ
飛鳥坐神社の「#事代主 が首渠神(ひとごのかみ)として神々を連れ #飛鳥の神奈備 に鎮座」という御由緒。その場所には諸説ありますが、シンプルに #三輪山 かも知れません #出雲屋敷 #イスケヨリヒメ #狭井川 #大神神社
目次
本文
山の辺の道・狭井川
三輪山の入山口、狭井神社(さいじんじゃ)を山の辺の道に沿ってしばらく進むと月山日本刀鍛錬道場(月山記念館)があり、ちょうどそのあたりに「(茅原の)狭井川」の道標が立っています。
日本古代史の謎への道標
道から10m近く離れた緑が生い茂ったところに立っている古い道標で、字もかすれていましたが、文字起こししました。
当社の御祭神・大物主神の御子・伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)の御住居は狭井川のほとり、この地域にあったと伝える(古事記) 狭井とは山百合のことであり、初夏には一帯に可憐な花を咲かせる。またこの地は古来より「出雲屋敷」といわれ、我が国の建国にかかわる極めて重要な場所である。大神神社
イスケヨリヒメは初代・神武大王(イワレヒコ)の皇后で、2代目の綏靖(すいぜい)大王の母。
古事記では『比売多多良伊須気余理比売、ヒメタタライスケヨリヒメ』、日本書紀では『媛蹈鞴五十鈴媛、ひめたたらいすずひめ』。
古事記でははじめ「富登多多良伊須須岐比売、ホトタタライススキ(ギ)ヒメ」)という名でしたが、富登(ホト)の名を嫌ったといい、後にヒメタタラの名に改められたと書かれています。(探している「トミ」の文字が見えます)
イスケヨリヒメ(タタラの名を持つ姫)の歌
狭井川の道標と、向かいの月山記念館・入口横の万葉歌碑にイスケヨリヒメの歌(写真は桜井市HPより。揮毫は月山貞一氏。)
狭井河よ 雲立ちわたり 畝火山 木の葉騒ぎぬ 風吹かむとす
『狭井川よ。雲が立ち畝傍山では木の葉がざわめいています。今に大風が吹こうとしています』
イワレヒコ(神武大王)の崩御後、第二后妃・吾平津媛の息子、タギシミミがイスケヨリヒメを后にして、さらに次の皇位を狙うためヒメの息子(嫡子)ら(兄・カムヤイミミ、弟・カムヌナカワミミ)を殺害しようともくろんでいる時に、察知したヒメが、危機が迫っていることを息子らに知らせるために送った歌とされています。(カムヌナカワミミが第二代・綏靖大王)
ヤマト創世記・出雲の記憶
イスケヨリヒメの宮は畝傍山にあり、息子たちは狭井川あたりの出雲屋敷に住んでいました。
なお、古事記はイスケヨリヒメを大物主神の娘としていますが、日本書記は出雲の事代主神(コトシロヌシ)の娘としています。