はじめに
空海さん(#弘法大師)の俗名は#佐伯真魚。父方が讃岐の #佐伯部。ヤマト王権が東日本を平定する過程で捕虜となった蝦夷を畿内から遠い地域に居住させた時の監督者あるいは一族の家系。幼いころから縄文を継承する蝦夷の言葉、思想、信仰に通じていた人でした
目次
本文
空海さんが日本にもたらした『真言密教』は、大日如来を中心とした(曼荼羅世界で描かれる)宇宙の真理を究める修行がベースになっていて、そこが、お釈迦様の教義を詠むことを主体とする『顕教』とは、丸っきり違います。
仏教はインド(天竺)でヒンドゥー教と習合しながら、やがてインドからほぼ消滅するのですが、早い段階(古墳時代晩期~飛鳥時代)で伝来*1したのが顕教、遅い段階(平安時代)に空海さんがもたらしたのが密教という理解がわかりやすいでしょう。
(特に唐の長安で晩年の恵果(えか)から直伝された空海さんの密教はインド密教そのものといってよいものでした。そのおかげで中国にはインド密教は残らなかったと司馬遼太郎さんは書いています。)
仏教とヒンドゥー教の習合に関しては、そもそもお釈迦様が始めた仏教は一神教的で偶像崇拝を禁じていたはずですが、日本に伝来した時点でそうではなかったことからもわかると思います。
(ヒンドゥー教は元来器用で、シルクロードのガンダーラで西方の宗教と融合して仏像などの形象化を進め、さらにヒンドゥー教&仏教としてチベットを北限に、東~南アジア全域に伝搬して行きます)
日本にやって来た仏教は、聖徳太子が主に釈迦仏教に焦点を当て、それが後(奈良時代)の国営の『奈良仏教』に継承されます。
一方、ヒンドゥー教的な部分は『山岳修験道』、民間の信仰として広がりました。創始者は役小角(えんのおずぬ)。
座学の教義よりも、ヒンドゥー教的な多神教の方が、日本古来の神さまとの相性はよかったでしょうから、その点で役小角の感覚の鋭さというか布教者としての才覚を感じます。後世の作り話がほとんどでしょうが、役小角の超人的でしかし怪しげな霊験譚は、現在の都市伝説と同じく、多くの人の心をつかみます。
さて、空海さん。はじめは叔父・阿刀大足(あとのおおたり)のツテで、奈良仏教の学徒として、儒教とともに学びましたが、結局、大陸の教義が介入し真理を求める道にあらず(真を仰がんには如かず)と、正規の僧ではない私度僧(しどそう)として山林修行(≒山岳修験道)に入ります。
司馬遼太郎さんが「日本人ばなれした、当時の(半島経由の)弥生的文化からかけ離れた異質の天才の出現」と表現した空海さんの生き方は渇望に似た真理への探求心に突き動かされており、それには原動力たる出自が大いに関係しているのかも知れません。
(以下、司馬さんの歴史小説『空海の風景』、随筆の『わが空海*2』を参考に、開物が書きました)
空海さん。生まれは宝亀四年(773年)もしくはその翌年。即身成仏として入定したのが承和二年(835年)。
四国、讃岐国、多度郡(香川県善通寺市、善通寺西院)の生まれ。
俗名は佐伯真魚(さえきのまお)。父上は佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)。母上は阿刀宿禰(あとのすくね)の娘(玉依御前、たまよりごぜん)。
空海さんの生涯を小説化した司馬さんの興味は、そもそも、父方の「佐伯」にもあったようです。
佐伯部(さえきべ)は古代日本の品部(部民)のひとつで、ヤマト王権が東日本を平定する過程(景行天皇期以降*3)で、捕虜となった蝦夷を、王権のある畿内と東日本から遠い播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5国に居住させた者たち、あるいは、その監督者の家系のこと。
空海さんは蝦夷、つまり、縄文血統の人たちと生まれた時から接し、当然、彼らの言葉を自然に話し、当時流行していた大陸文化とはまったく異質の思想や信仰を十分に理解していたはずです。
ヤマト王権には蝦夷の言葉の通訳部門「蝦夷訳語、えみしおさ」があったほどで、佐伯部がその任にあたったと考えられます。
佐伯は「さえぎ」「騒ぎ」を意味し、ヤマトで付けられたあだ名から出た、耳慣れぬ言語は騒がしく聞こえるからだろう、と司馬さんは紹介しています。
空海さんが在野の私度僧として修行に入った山奥の山林には、古来よりの縄文血統の人々が、竪穴や洞穴で住み続けていた時代でした(畿内では吉野の国栖人、葛城の土蜘蛛と云われた人々、あるいはその末裔)
空海さんは、ヤマトよりもはるか昔の純粋世界、日本の「原意識」を伝える世界に入り、そこに真理を究める場を求めたと見るのが自然でしょう。
アラハバキ解・汎日本古代信仰の謎に迫る(連載中)
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