ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【葛籠尾崎湖底遺跡資料館②】発掘された丸木舟【湖成鉄が付着した縄文土器】

はじめに

展示室には、近くの #尾上浜遺跡 から発掘された縄文後期~晩期に使用されたと推定される #丸木舟 が展示されています #葛籠尾崎湖底遺跡資料館 #湖成鉄 #縄文土器

目次

本文

発掘された丸木舟の展示

(実際に発掘されたものか、復縁品かは確認するのを忘れました。)

尾上浜遺跡の丸木舟(縄文時代後期~晩期)

解説文・文字起こし)尾上浜遺跡(1艘)をはじめ、水茎C遺跡(近江八幡市)で5艘、長命寺湖底遺跡(近江八幡市)で1艘、松原内湖遺跡(彦根市)で11艘の丸木舟が出土している。尾上浜遺跡から出土した丸木舟は、地層から縄文時代後期から晩期に使用されていたと考えられる。全長は5.5メートル、最大幅0.6メートルで復元された深さは0.35メートル、船体部分の厚さは3.5センチメートルで、材質はモミ属(マツ科の樹木)である。この丸木舟を復元し、湖北町尾上から直線約5キロメートルの沖合の竹生島(ちくぶじま)までの実験航海が行われた。この実験結果から、尾上の縄文人が葛籠尾崎(つづらおざき)まで、丸木舟で容易にわたることができたことが証明された。尾上の縄文人は、丸木舟で琵琶湖を渡りどこまで行っていたのであろうか。

尾上浜遺跡は資料館から近くの琵琶湖畔で、発掘された当時の写真が展示されていました。

尾上浜遺跡の発掘時の状況

琵琶湖を丸木舟で自在に行き来していた縄文時代の人々

尾上浜遺跡あたりから沖合の竹生島~葛籠尾崎(つづらおざき)方向を撮影しました。縄文時代の想像図(上)と見比べて、当時の様子を想像してみてください。

参考に、上の案内文より、丸木舟が発見されている琵琶湖周辺の遺跡の位置も描いておきました。

あくまでも発見された分だけ。

湖西地方も含めて、湖岸の地層に眠っている丸木舟は、まだまだあるように思います。

もしかしたら湖底に沈んだものもあるかも知れませんね。

琵琶湖周辺遺跡から発掘された丸木舟

触れることのできる縄文土器がひとつ

展示室に、ひとつ、縄文土器。スタッフの女性に聞くと『触ってもよい』ということですので、優しく撫で(愛で🤩)させていただきました。

しっかり紋様のついた土器です。表面がやや黒っぽくなっているのは、湖底にあった長い時間に、琵琶湖の水に含まれる鉄分(湖成鉄)が定着したことによります。

詳しい説明はなく(私のつたない知識を総動員して)縄文早期、あるいは、縄文後期ものでしょうか😅

中期の土器にみられる四つの突起様がないところからそう考えました。。。どちらかわかりません。

さて、お詳しい方、いかがでしょうか。

【参考】湖底から引き揚げられた縄文中期の土器(四つの突起状があります)

この資料館の面白いところは、尾上地区の漁師さんによって引き揚げられた土器などが、こうして(寄贈)展示されているところです。

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