ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【宝来山古墳(垂仁天皇陵)】浮島の田道間守(たじまもり)と非時香菓(ときじくのかくのみ)の伝承

はじめに

第11代 #垂仁天皇陵 に治定される #宝来山古墳 周濠の浮島には常世国(とこよのくに)に渡り苦難の末に橘(ミカン)を持ち帰った菓祖 #田道間守 の #非時香菓 伝承が残されています

目次

本文

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宝来山古墳(宮内庁治定 垂仁天皇陵)

(34.6806218, 135.7810341)/奈良市五条1丁目6−12 尼ヶ辻町字西池1030/近鉄奈良線大和西大寺駅から徒歩約30分、同橿原線尼ヶ辻駅から徒歩5分。駐車場はありません

全長約227メートル、西暦400年前後(古墳時代前期末)の築造の(百舌鳥・古市古墳群に先行する)大型前方後円墳

宮内庁は第十一代・垂仁天皇陵に治定しています。

菅原・伏見地区の地名から菅原伏見東陵と名付けられています。

古墳の周濠(お濠)の南東がひときわデカイのは、濠の中の 小さな浮島 の存在が関係しているようですね。

宝来山古墳(垂仁天皇 菅原伏見東陵)

宝来山古墳(垂仁天皇 菅原伏見東陵)

田道間守(たじまもり)と非時香菓(ときじくのかくのみ)伝承

垂仁天皇はエピソードの多い大王で、少々の記事では紹介しきれないので、ここでは 田道間守(たじまもり)と非時香菓(ときじくのかくのみ) の伝承について。

古墳の周濠(しゅうごう、お濠)の浮島が、垂仁天皇崩御(ほうぎょ、亡くなること)の哀しみのあまり亡くなった 田道間守命(たじまもりのみこと)の御塚と伝えられています。

宝来山古墳(垂仁天皇 菅原伏見東陵)南西から撮影

宝来山古墳の周濠の浮島。伝・田道間守命(たじまもりのみこと)の御塚 南から撮影

垂仁天皇の勅命で常世国(とこよのくに)*1に遣わされ、苦難の末、手に入れた橘(たちばな、みかん)を持ち帰ったものの、天皇はすでに亡くなった後…

嘆き哀しんだ田道間守は、後を追うように亡くなったというお話。

どこまで史実かわかりませんが、よく知られた話です。

案内文中「八竿八縵(やほこやかげ)」とは「葉をとった八つの枝、葉のついた八つの枝」という意味。

この表現からも、この伝承が、何らかの故事(史実)を暗喩したものと考えられています。

宝来山古墳近く「田道間守と橘の木」史跡の案内

田道間守命 御塚拝所と大和橘

田道間守命の御塚を遥拝する所もあります。

菓子の神=菓祖、また、柑橘の祖神としても信仰されています。

田道間守命 御塚拝所

遥拝所の近くでは、田道間守の伝承にちなんで、大和橘(やまとたちばな)が栽培されていました。

落ちていた実を拾って撮影。

大和橘の栽培

*1:日本では浦島伝説の一つ『丹後国風土記逸文では「蓬山」と書いて「とこよのくに」と読み、文脈にも神仙などの用語が出てくること、田道間守の話や他の常世国伝承にも不老不死など神仙思想の影響が窺えることから理想郷の伝承として海神宮などと習合したとも思われる(wiki「蓬莱」より)