「#古事記 の例え話(#日本神話)は読み手の解釈が重要」という作家 #太安万侶 の言葉に従い #葦原中國 について考察しました。結論から言うと葦原中國とは #古代河内湖 であった可能性が非常に高いと推理 #下照姫 #アメノワカヒコ
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「葦原中國平定」神話。例え話の解釈
作者・太安万侶が残したという「古事記の例え話(神話)は解釈が重要」という言葉を手がかりに、
古事記(上巻五)「葦原中國の平定」神話に登場する下照姫とアメノワカヒコ(天稚彦、天若日子)の『史実』を考えてみたいと思います。
まず、古事記も出雲伝承(出雲と大和のあけぼの、斎木雲州氏)も二人は夫婦であると伝えています。
出雲伝承系図は、下照姫は大国主と八上姫(側室)の娘で、正室のタギツヒメ(多岐津姫、宗像三女神の次女と考える(開物))との息子・アジスキタカヒコネとは義兄妹の関係になります。
御井神社(みい、出雲市)の伝承(ホームページ)には「八上姫は木股神(下照姫。出雲伝承系図では木股姫とも)を出産したけれど、オオクニヌシとの再会を諦めた経緯が伝えられています。
このあたりの詳細は不明ですが、下照姫は何らかの事情で、オオクニヌシとタギツヒメのもとで育てられたことを示唆しています。
つまり、下照姫とアジスキタカヒコネは小さい頃から本当の兄妹のように育てられていたことになります。
ところが「芦原中國」神話では、アメノワカヒコの葬儀に訪れたアジスキタカヒコネを、妻の下照姫と実の父上(オオクニヌシを暗示)が「夫・義理の息子にそっくり」だと見違えたと記述されており、二重にありえない話です。
このあたり、太安万侶らしいというか、例え話(神話)の中に、明らかに事実と矛盾する話を置いて、それをヒントに読者に考えさせようという「作家」としてのしたたかな戦略が見えますね。
葦原中國は古代河内湾(湖)だった!?
産湯稲荷神社(玉之井の社)近くの「磐舟山の石碑」が建立される経緯となったと考えられる摂津国風土記の伝承(再掲)。
【摂津国風土記・高津】摂津国風土記にいわく。難波高津は天稚彦(あめのわかひこ)、天(あめ)下りし時、天稚彦に付きて下れる神、天の探女(あめのさぐめ)、磐舟に乗りてここに至る。天磐船の泊(はつ)る故をもって、高津(たかつ)と号すと云々
あくまでも伝承ですが、このまま読めば、アメノワカヒコは現在の高津あたりに居を構えたということになります。
当然、妻の下照姫も同行していたはず。
つまり、アメノサグメは下照姫と考えるのが自然です。
葦原中國神話では「下界に下って何年も戻って来ないアメノワカヒコに、高天原のタカミムスビ(高木神)が雉の鳴女(なきめ)を遣わせて理由を問いただした際、その声を聴いた天佐具売(アメノサグメ)が「その鳥は不吉な鳥だから矢で射るように」と勧め、アメノワカヒコはタカミムスビから与えられた天羽々矢(アメノハハヤ)で雉を射抜いた」となっています。
神話ではまるで侍女のような書き方ですが、アメノサグメは下照姫であると考えられます。
これも出雲伝承が伝えるところですが「古代出雲では銅鐸を木の枝に吊るして鳴らしていて、そのカタチが蝶のサナギに似ていたことからサナグ(佐奈具)と呼んでいた」と伝えています。
下照姫は銅鐸と深い関わりを持つ姫巫女です(次回詳しく)
「天佐具売」は、銅鐸を鳴らす王の血統(オオクニヌシ)を持つヒメミコ(姫巫女)と読むことができ、この文脈においては天佐具売は下照姫であると特定できます。
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かつて夫婦が居(宮)を構えた現在の産湯稲荷神社(摂津国風土記の高津)から見える景色。
目の前には広大なクニウミ(国生み)の河内湖が広がっていたはず。
つまり、古事記神話の葦原中國は古代の河内湖だったと考えることができるのです(続きます)