箸墓古墳から見て夏至の日の出は #穴師山。纏向遺跡から見て冬至の日の出は #三輪山。真ん中の #巻向山 から春分・秋分の日の出。古い #ヤマト創世記 の三山は、巨大な二至二分のカレンダーだったと考えられます
目次
本文
箸墓古墳中心から見て夏至の日の出は「穴師山」
【前回記事】
箸墓古墳中心とは「後円部の墓域中心」のことです。
箸墓古墳後円部の麓からの穴師山、巻向山、三輪山。(2023年2月。後円部は立入禁止)
纏向遺跡中心から見て冬至の日の出は「三輪山」
纏向遺跡中心とは「神殿跡(居館跡)」のことです。
纏向遺跡・神殿跡からの穴師山、巻向山、三輪山(2021年冬至)
春分・秋分の日の出は「巻向山」
箸墓古墳・纏向遺跡を含む纏向エリアから見て、ほぼ真東、春分・秋分の日の出は巻向山となります。
二至二分・太陽信仰の巨大カレンダー
唐子・鍵を継承し、纏向エリアがヤマトの中心になった稲作弥生時代・後〜晩期の西暦150〜300年代において、
穴師山・巻向山・三輪山の「古い大和三山」を目印とした二至二分の、
稲作と太陽信仰が直接結びつく巨大なカレンダーがあったことは確実でしょう。
* 春分:三月下旬。巻向山から日の出。田づくり
* 夏至:六月下旬。穴師山から日の出。田植え(播種)〜青葉
* 秋分:九月下旬。巻向山から日の出。稲モミ〜収穫期
* 冬至:十二月下旬。三輪山から日の出。休耕。一年の終わり
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このようなカレンダーはヒメヒコ王制の古代の統治力の源泉であり、
四季折々の姫巫女(ヒメ)の祭祀は、ある意味、大王(ヒコ)の権威を上回るものであったように思います。
…ヒコには祭祀力(霊力)の強いヒメが必要だった。
祭祀には祭具(主に鏡・玉・剣)が用いられ、それらが後に 三種の神器 として継承されたと考えています。
それらの祭具が、纏向に至近の穴師坐兵主神社に持ち寄られている点が根拠になりますが、まだ結論めいたことを書くまでには至っていません。
色々と違う角度から考える必要もあると考えています。
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なお、古代のカレンダーは現在でも「暦」として残されています。
二十四節気が稲作ベースであることからも伺え、その起源は巨大カレンダーを用いたヤマトの纏向であったのではないでしょうか。