昨日の記事のあと、考えたことがあり、忘れないうちに書いた記事。
入谷(にゅうだに)に海人族がムラをつくっていたが、大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)がたびたび訪れた理由。
まず、推測できるのは次の2点。
● 古代より、海人族が「吉野~宇陀~奥明日香」一帯を拠点にしていた(水銀の採取と物流)
● 大海人皇子は、一帯の海人族の組織と動きを「力の源泉」にした(壬申の乱(672)に勝利し、天皇になる)
そして・・・
古代の見張り台(のぞき穴)
実際に入谷の展望台からアベノハルカスを眺めていて気が付いた。
(古代の人は、強度の近視・乱視・・・年相応の老眼の私より、はるかに(暗)視力がよい前提、笑)
古代「津の国」の中心であった「上町半島」の様子がリアルタイムで「見えた」のだ。
今は大阪市内中心を南北に走る「上町台地」だが、飛鳥時代(600年代)は大阪湾と河内湖(潟)に挟まれた半島だった。
上町半島には四天王寺と難波宮、重要拠点があり、人や物の動きも活発だっただろう。
夜は陸上・海上のかがり火の動きとして見ることができたはず。
そして、視線の中間にある「二上山(にじょうざん)」
二上山の北側は大阪・四天王寺の南の国道25号線から谷超えして法隆寺に至る「最古の官道」、一方、二上山の南側は「竹内街道」だ。
大阪から陸路で奈良盆地に入るには主にこの2ルートを使うが、いずれも視界におさめることができる。
なぜ見張りが必要だったか? 飛鳥時代・内外の情勢
斉明女帝の息子・第38代天智天皇の時代、日本は白村江(はくすきのえ)の戦い(663年、海上戦)で唐・新羅軍に大敗し、多くの兵力と武器(鉄)を失った。
敗戦後、秦氏(はたうじ)が支配する近江製鉄による回復が目的で、天智天皇は内陸の近江大津宮に遷都したが、最初の都は「難波長柄豊碕宮」=難波宮(前期難波宮)にあり、瀬戸内海からやってくる唐・新羅軍の反撃を怖れ、廃都したと云われている。
もし唐・新羅軍がやってきたら、最初にどこに上陸するか? 瀬戸内海の最奥、海のそば、四天王寺、難波宮のある上町半島だ。
ちなみに四天王寺はアベノハルカスの北約500メートル、難波宮は北約4キロ、に位置する。
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年代が少し下って、壬申の乱(672)勃発時、天智天皇の息子・大友皇子に対して、おじの大海人皇子は反乱軍として蜂起したことになる。
国中(奈良盆地、葛城)や津の国(大阪平野)の動きを把握するのに、入谷からの視界は貴重な情報源であっただろう。
天智天皇が「乙巳の変」で蘇我氏を滅ぼした後に遷都(652)した難波宮(難波長柄豊碕宮)は、壬申の乱の当時も、大友皇子勢力の拠点だったはず。
ゆえに大津宮の動きは難波宮の動きにあらわれたはずで、大海人皇子はそれこそ「手に取るように」敵方の動きを「見て」準備していたことになる。
古代も現代も、戦いの勝利の鉄則は、情報戦にまず勝つことである。
(注意)展示パネルには、難波長柄豊碕宮(前期難波宮、645以降に計画→652遷都)は記載されていない。