ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【2022年 祇園祭(後祭)】巡行直前 山鉾11町 早朝からの準備の様子【196年ぶり鷹山復活】

はじめに

祇園祭 #後祭 #山鉾巡行。全11基の各山鉾町の巡行直前、早朝からの準備の様子を見学。2022年の巡行順に紹介(写真68枚)各御由緒は祇園祭山鉾連合会HPより。 なお、2019年春にスタートした当ブログ一千回目の記事となりました\(^o^)/

目次

本文

2022年祇園祭 後祭マップ

(くじ取らず)橋弁慶山(はしべんけいやま)

橋弁慶山

橋弁慶山

橋弁慶山(宵山

謡曲「橋弁慶」より取材、弁慶と牛若丸が五条の大橋で戦う姿をあらわしている。弁慶は鎧姿に大長刀を斜にかまえ、牛若丸は橋の欄干の擬宝珠の上に足駄で立ち片足を曲げ右手に太刀を持っている。橋は黒漆塗で特に牛若丸の人形は足駄金具一本でこれを支えている。弁慶と牛若丸の人形には、永禄6年(1563)大仏師康運作の銘があり、また牛若丸の足の鉄串には、天文丁酉(1537)右近信国の銘がある。前懸は中国清頃の雲龍波濤文様の綴錦であったが、昭和58年から新しく富岡鉄斎原画の椿石図綴錦が用いられている。胴懸の加茂祭礼図綴錦は円山応挙(1733~1795)の下絵と伝えられており、近年復元新調された。水引は唐子嬉遊図の綴錦、後懸は雲龍文様の刺繍である。なお、この山は古来くじとらずで、後祭巡行列の先頭を行く。

(くじ取らず)北観音山(きたかんのんやま)

北観音山

北観音山 左)宵山、右)山鉾巡行直前

「上り観音山」ともいわれている。文和2年(1353)創建であることが町有古文書に記され、山舞台には楊柳観音像と韋駄天立像を安置する曳山で、飾屋根を付けたのは天保4年(1833)のことである。破風下の木彫雲鶴は片岡友輔の作。天水引は観音唐草と雲龍図を隔年に使用、下水引関帝祭の図と伝える人物風景は中島来章の下絵。胴懸類は17~18世紀の花文インド絨毯を用いていたが、近年、前後懸は19世紀のペルシャ絨毯、胴懸東面はトルキスタン絨毯と、西面はインド絨毯「斜め格子草花文様」の復元品に変えている。二番、三番水引は共に山鹿清華作の手織錦であったが、平成18年(2006)より「赤地牡丹唐草文様綴織」の二番水引と「金地紅白牡丹文様唐織」の三番水引(復元新調)の江戸時代の姿に戻している。四隅の房掛金具は祇園守。欄縁の唐獅子牡丹等錺金具の精巧さは、この山の華麗さを際立たせている。巡行時に柳の枝を差出しているのは観音懺法にちなむもの。慶安4年(1651)在銘の旧観音尊衣裳、退紅色花菱襷文様繻珍裂は大切に保存されている。

(山一番)浄妙山(じょみょうやま)

浄妙山

浄妙山

浄妙山

浄妙山 宵山

平家物語宇治川の合戦から取材、治承4年(1180)宇治川の合戦に三井寺の僧兵筒井浄妙が橋桁を渡り一番乗りをしようとすると、一来法師がその頭上を飛び越え、「悪しゅう候、御免あれ」と前に進み出て先陣をとってしまったという。御神体(人形)は一来法師が浄妙の頭上を飛び越える一瞬をとらえ木片の楔で一来法師の人形を支えている。黒漆塗の橋桁にも数本の矢がささり戦さのすごさを示している。かつては「悪しゅう候山」とも呼ばれていた。水引は波濤文様の彫刻、胴懸にはビロード織の琴棋書画図を用いていたが、昭和58・59年より、長谷川等伯原画の柳橋水車図にかえ、また、前懸・後懸は智積院所蔵の障壁画で、前懸は長谷川久蔵筆「桜図」、後懸は長谷川等伯筆「楓図」を原画として、平成18年・19年に新調した。見送はこの町に住んでいた本山善右衛門が苦心して織った雲龍文様の「かがり織」である。そのほか、浄妙坊が着用している黒韋威肩白胴丸は、室町時代の作で、重要文化財に指定されている。

(山二番)鯉山(こいやま)

鯉山

鯉山

鯉山

山の上に大きな鯉が跳躍しており、龍門の滝をのぼる鯉の奔放な勇姿をあらわしている。前面に朱塗鳥居をたて山の奥には朱塗の小祠を安置し素盞鳴尊を祀る。その脇から下がる白麻緒は滝に見立てられ、欄縁その他の金具はすべて波濤文様に統一されている。山を飾る前懸、胴懸(2枚)、水引(2枚)、見送は16世紀にベルギー・ブラッセルで製作された1枚の毛綴を裁断して用いたもので、重要文化財に指定されている。ベルギー王室美術歴史博物館の調査により、その図柄はホーマー作「イーリアス」物語の一場面で、トロイのプリアモス王とその后ヘカベーを描いたものといわれている。別に旧胴懸としてインド更紗のものがある。また、平成21年に前水引「金地果実文様」が、平成22年に後水引「金地花唐草文様錦」が新調された。

(山三番)鈴鹿山(すずかやま)

鈴鹿

鈴鹿

鈴鹿御神体 鈴鹿権現(瀬織津姫、祓いの女神)の持つ薙刀と中啓

鈴鹿権現をまつる。伊勢国鈴鹿山で道ゆく人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現(瀬織津姫尊)を、金の烏帽子をかぶり手に大長刀を持つ女人の姿であらわしている。後の山には赤熊で象徴した悪鬼の首が置かれている。山に立つ松には鳥居・松・木立と宝珠を描いた絵馬がつけられるのも珍しく巡行後に盗難除けの護符として授与される。前懸は平成元年新調、黄砂の道と称する駱駝の図。胴懸の平成11年新調の桜図綴織と平成13年新調の紅葉図綴織は共に今井俊満氏原画である。見送は文化13年購入の中国明代の雲龍文様、天啓2年(1622)の年記を持つ紺紙金泥文字、明治35年作の牡丹鳳凰文様刺繍を伝えるが、現在は昭和57年新調の染彩ハワイの蘭花を用いている。欄縁金具は山鹿清華下絵の四季花鳥文様である。

www.zero-position.com

(くじ取らず)南観音山(みなみかんのんやま)

南観音山

南観音山

南観音山

「下り観音山」ともいわれている。華厳経の説話で、善財童子が順に教えられ南へ南へ53人の聖者を訪ねて菩薩道修業をした話は、東海道五十三次や指南の語源となるが、28番目の観音は美しい南海のほとりに住み、あらゆる苦悩から人々を救うことを教えたという。本尊の楊柳観音像は、悠然と瞑想する鎌倉時代の座像であるが、天明の大火で頭胸部だけが残り、他は童子像とともに江戸時代の木彫彩色像。諸病を防ぐといわれて巡行には柳の大枝を差し、山の四隅には菊竹梅蘭の木彫薬玉をつける。天水引は塩川文麟下絵の「四神の図」で、近年復元新調された。下水引は、加山又造の原画による飛天奏楽。見送は中国明代の雲中青海波文様の綴錦であったが、昭和63年に加山又造の「龍王渡海図」を新調し使用している。平成22年には江戸時代より使用のインド絨毯後懸にかえて、イラン・ミリー工房製の「中東連花水辺に魚文様」の絨毯を購入した。そのほか17世紀製作の逸品で異无須織といわれる華麗なペルシャ金銀絹絨毯の旧前懸や年紀のあるもので日本最古(1684)のインド更紗旧打敷などを保存する。

(山四番)役行者山(えんのぎょうじゃやま)

役行者

役行者山 左は会所にて(宵山

役行者

役行者山(宵山

山の御神体(人形)として役行者一言主神と葛城神の三体を安置し、この組み合わせは役行者一言主神を使って葛城と大峰の間に、橋をかけたという伝承を想起させる。正面の洞に役行者が帽子・掛絡・経巻・錫杖を持って座し、葛城神は女体で手に台つきの輪宝を持ち、一言主神は鬼形で赤熊をかぶり手に斧を持っている。水引は綴錦の名手とうたわれた西山勘七作の唐子遊図、前懸は牡丹胡蝶図と雲龍文様との三枚継ぎ(平成9年復元新調)、胴懸は雲龍波濤文様の綴錦、見送は二種あり、袋中上人請来と伝える中国の旗と思われる龍文様のものを二枚合わせ、縁を赤地古金襴(安楽庵裂)で縁どったものと、中国明朝の官工場で織られた金地唐美人図の綴錦とがあるが、昭和57年から新しく復元した金地唐美人図綴錦が用いられている。また、山担ぎ手の法被は、平成13年度に復元新調されている。

www.zero-position.com

(山五番)黒主山(くろぬしやま)

黒主山

黒主山

黒主山

謡曲「志賀」にちなみ大伴黒主が桜の花をあおぎながめている姿をあらわす。御神体(人形)は寛政元年(1789)5月辻又七郎狛元澄作の銘を持つ。山に飾る桜の造花は粽と同様に戸口に挿すと悪事が入ってこないといわれている。水引は雲龍文様の繻珍、前懸は萬暦帝即位の折の御服と伝えられる古錦を復元した五爪龍文様錦、胴懸は草花胡蝶文様の綴錦。見送は平成16年(2004)に牡丹鳳凰文様が復元新調されている。別に宝散し額唐子嬉遊図が復元新調されている。人形着用の古衣裳には、延宝3年(1675)在銘の紺地菊唐草文様小袖及び正徳元年(1711)在銘の萌葱絽地牡丹文様色入金襴大口袴があり、江戸時代初期在銘の貴重なものである。また平成12年には、後懸の飛龍文様綿入刺繍が新調された。

(山六番)八幡山(はちまんやま)

八幡山

八幡山

町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請したもので、常には町会所の庭にお宮を祀っている。山の上の小祠は総金箔の美麗なもので天明年間(1781~1788)の製作といわれる。水引は今までの金地花鳥仙園図唐繍にかわって昭和61年より十長生図の刺繍が用いられている。「十長生」とは不老長寿を意味する。前懸は慶寿群仙図で元禄3年(1690)に寄進されたものを昭和62年に復元新調したのである。見送は日輪双鳳人物文様の綴錦と藍地雲龍文様蝦夷錦がある。欄縁の彫金飛鶴は河原林秀興作と伝えられ、朱塗鳥居の上には左甚五郎作の木彫胡粉彩色の鳩が飾られる。その他に美術品として海北友雪(1598~1677)筆の祇園還幸祭図屏風(京都市指定文化財)を所蔵している。

八幡山 会所内の八幡社(宵山

(くじ取らず)鷹山(たかやま)【196年ぶりの復活】

鷹山 左は宵山

真新しい鷹山

鷹山

鷹山

応仁の乱以前より「鷹つかい山」として巡行した山鉾のひとつである。江戸時代に曳山となり、天明の大火で罹災、寛政年間に現在の「北観音山・南観音山」と同様の大屋根を持つ曳山として復活したが、文政年間に大風雨により大破し、巡行を取りやめた。その後復活を果たせず、幕末の蛤御門の変にて大半の部材が焼失。ただ、人形3体は焼失を免れ、後祭の宵山に居祭として、木彫の「鷹」「犬」と共にお町内にてお飾りを続行。復興を目指して令和元年(2019)より唐櫃巡行(からびつじゅんこう)に加わり、令和4年(2022)、196年ぶりに巡行復帰を果たした。

(くじ取らず)大船鉾(おおふねほこ)

大船鉾

大船鉾 御神体宵山

大船鉾

後祭の鬮とらずとして殿をつとめ、前祭の船鉾が出陣船鉾と称されるのに対して凱旋船鉾といわれていた。500年余りの歴史を持ち、江戸時代の再三の大火に被災するもそのつど復興を繰り返してきたが、幕末の元治元年(1864)におこった「蛤御門の変」にて屋形・木組・車輪等を失い、それ以来巡行参加することはなかった。長い年月を経て平成9年にお囃子の復興、そして焼失を免れた神功皇后の御神像や舳に飾る大金幣、また織物・刺繍の高度な技術を駆使して製作された大舵や水引・前懸・後懸等をお飾りしての「居祭」の再開で復活への機運が盛り上がり平成24年から唐櫃巡行を、そして平成26年四条町の皆様の熱意と多くの方々のご協力のおかげで150年ぶりに巡行参加することが出来た。この年より祇園祭も前祭・後祭の巡行が17日・24日と49年ぶりに分離巡行となった。後祭10基の山鉾の殿として、まだまだ未完の状態ではあるが堂々と朝日を受けて巡行する事ができた。今後は屋形の塗装・失われた人形の復元・また江戸期には現存する大金幣と隔年交代で舳を飾っていた龍頭の復原と焼失以前の優雅で豪華な姿になることを目指している。

www.zero-position.com

八坂神社 四条御旅所 三基の神輿

後祭終了後に環幸祭。八坂の神さんは、御旅所から八坂神社にお環りになり、御本殿に戻ると、今年の祇園祭は終わります。

四条御旅所の神輿

PVアクセスランキング にほんブログ村ポチっとお願い

【2019年 祇園祭 後祭】

www.zero-position.com

【2022年 祇園祭 前祭】

www.zero-position.com