石山合戦配陣図(和歌山市立博物館蔵。石山合戦(1570-1580)当時の石山本願寺と織田信長軍の配置図)に現在の大阪を少し書き込んでみた。
秀吉公の前、今の大阪城の地には、石山本願寺という浄土真宗(門徒さん)の大きな寺と寺内町(じないまち)が発展していた。
名の通り「石の山」に建てたことから、石山本願寺と呼ばれるようになった。
大きな坂・小さな坂が多い一帯で、その様子が大阪(大坂)の名の元にもなった。
古地図に現在の南北を通る筋をおおよそ書き込んでみた。
私の地元、四天王寺近くの上町台地・夕陽丘あたり、松屋町筋を起点に、古地図の「砂場(古地図では二か所)」から四ツ橋筋の線を引いてみた。
砂場とは現在の大阪市西区新町(四ツ橋筋)、秀吉時代には木材・石材置場になった所。人足相手に繁盛したここの蕎麦屋、後に江戸に移転して老舗となった。
松屋町筋と四ツ橋筋のおよそ中間がメインストリート・御堂筋だが、戦国時代には半分海底。
道頓堀・法善寺横丁は「水掛け不動」で知られるが、隣に無事航海を祈る金毘羅さんがある理由は、この古地形を見るとわかる。
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現在の大阪城は、この区画の右側一帯。
浄土真宗の中興の祖・蓮如上人の名の杉の木(連如杉)、住まいであった石山御堂が見える。
現在の大阪城・内堀に相当する石山の内には、当時でも「亀ケ池」「白竜池」に囲まれた鳥居のある巨大な神域が描かれている。
これが生玉神社。亀と竜、おそらく古代は浮島系の様式だ。
古代、ひとつの大きな池で、本殿へは天の浮橋(太鼓橋)を渡っていた姿が想像される。もしかしたら舟かも知れない。
もう一点。上町半島の中で、最も標高が高い丘に生玉神社はあった。天守閣周辺の標高は38メートルで、これより高い所は大阪市内にはない。
私がイメージする物部氏の聖地、祭祀場の姿とは、
浮島は天に近く、水が流れ出す場所
1490年ごろからの本願寺造営後、百年を経ても「神域」にはあまり手が加えられていなかった様子がうかがえる。
磐座が多数・・・「石山」の名の由来になったと考えるのが自然だ
古墳説もあるが、墳墓に磐座(あるいは鳥居)が置かれることはない。逆に言えば磐座のあるところに墳墓は造られない。
大阪城の3D地図の左下に少し見える緑のエリアが難波宮(なにわのみや)。
上町半島の複数個所が仁徳天皇の高津宮(こうづのみや)の候補地として挙げられていたが、近年、難波宮説が高くなっているそうだ。
つまり、物部氏は仁徳天皇の宮を、北から見下ろす位置に聖地を置いていたことになる。
この位置関係、当時の物部氏の権勢・権威のスゴさをうかがわせる。
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