ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

秦河勝 の検索結果:

【守屋神社(里宮)】信濃と大阪を繋ぐ物部守屋の点と線【物部さん考】

…月)で太子軍(参謀は秦河勝、はたのかわかつ)に討たれました。 (これらのシナリオは開物の古代妄想。蘇我三代(馬子-蝦夷-入鹿)はいなかった説に繋がります。出雲伝承と同じ視点。明日香村(祝戸地区)伝承も参考にしました) 丁未の乱の最終局面をデザイン化。樹上の守屋を矢で射ようとしている迹見赤檮(とみのいちい)。手を合わしているのは厩戸皇子 ***** 四天王寺金堂の鳥居(白鷹の止まり木)は守屋祠を睨んでいる(見張っている) www.zero-position.com 私の地元大阪…

【秦楽寺】境内 倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)伝承地のひとつ【笠縫神社】

…8)聖徳太子の家臣・秦河勝(はたのかわかつ)*1の創立せる古刹*2であって、寺伝を按ずるに、太子在世の頃、百済国王より西天笠仏工・毘首加都羯磨(びしゅかつま)の彫刻せる千手観音像を、太子に進献され太子はこれを秦河勝公に賜れた。河勝公も信心篤く二十町方の地に七堂伽藍を建立し仏徳を講じ益々信心を深め。本尊法楽の道場とされた(是れ秦楽寺称号の所以なり)。また伝説ではあるが弘法大師も当寺に立ち寄られ、大師の名著「三教指帰(さんごうしいき)*3」の書は当寺にありて撰述されたとされている…

【岩戸神社(岩谷弁財天)】伝・空海さん創建。日本最初の岩窟弁財天

…れたものであります。古来、日本最初の岩窟弁財天とも称されました。 岩戸神社(岩谷弁財天)御由緒 岩戸神社(岩屋弁財天)の御本殿。 岩戸神社(岩谷弁財天)御本殿 #岩戸神社(大阪府八尾市) 隣の天照大神高座神社の摂社 pic.twitter.com/U2SDFZGjRs— 開物発事 (@Kai_Hatu) 2022年6月12日 ポチっとお願い *1:大阪府八尾市教興寺7丁目21。真言律宗。聖徳太子が物部守屋の討伐を祈願するため、秦河勝に命じて崇峻天皇元年(588)に建立(寺伝)

【天塚古墳①】秦氏の首長一族を埋葬したと考えられる前方後円墳【お稲荷さんの信仰】

…です。 www.zero-position.com また後円部は、天塚古墳の北西、やはり秦氏の長・秦河勝が開基した 広隆寺(太秦寺、蜂岡寺)の境域を向いています。 古墳をぐるっと回って、スタート地点に戻ってきました。 天塚古墳 天塚古墳(京都市右京区太秦松本町18) 太秦の前方後円墳 【蛇塚古墳/古墳時代後期末】 www.zero-position.com 【箕山古墳(片平大塚山古墳)/古墳時代前期(纏向型と類似)】 www.zero-position.com ポチっとお願い

【木島坐天照御魂神社(1)】蚕養神社(蚕の社)、元糺の池の三柱鳥居

…源とされる造化三神の一柱 *2:大国主と一身同体か?、最高の国魂とされます *3:海幸・山幸神話の山幸彦とされます。初代神武天皇の諱(いみな)が彦火々出見で同一視されることもあります *4:神武天皇の御父上で。日向三代の三代目 *5:天孫降臨の主役。天皇家の祖先神 *6:創建は推古天皇11年(603年)。秦河勝はたのかわかつ開基。本尊は聖徳太子。別称は蜂岡寺・秦公寺・太秦寺 *7:①京都御苑・旧九条家の厳島神社の鳥居、②木島坐天照御魂神社の三柱鳥居、③北野天満宮・伴氏社の鳥居

【鵺池と鵺大明神(京都市上京区)】平安京の妖怪 鵺(ぬえ)退治 その後の顛末

…の風姿花伝に書かれた秦河勝の話に似ていると思いませんか(以下再掲) ちなみに平安京の土地を朝廷に提供したのは秦氏です。 【余談】うつほ舟について【再掲】 謡曲「鵺」の案内板にうつほ舟=丸木舟と書いてありますね。 世阿弥の風姿花伝に『かの河勝、欽明、敏達、用明、崇峻、上宮太子に仕え奉る。此芸をば子孫に伝え、化人跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦より うつほ舟 に乗りて、風にまかせて西海に出づ』という一文があります。 文脈的に厩戸皇子(聖徳太子)に仕えた秦河勝(はたのかわかつ)の…

【神明神社(京都市下京区)】平安京のモンスター 鵺(ぬえ)退治 必勝祈願の社

…波の浦より うつほ舟 に乗りて、風にまかせて西海に出づ』という一文があります。 文脈的に厩戸皇子(聖徳太子)に仕えた秦河勝(はたのかわかつ)の最後を描いていますが、生きた者が乗るものではない(あの世に向かう、あの世とこの世をさまよう)舟に乗って西の海に出航します。『うつほ舟』の具体的なイメージが湧かなかったのですが、神明神社の案内板では丸木舟と解説されていますね。(虚舟(うつろぶね)とも云われUFO説もあります。笑) www.zero-position.com ポチっとお願い

【星田妙見宮(小松神社)(4)】妙見信仰と北斗七星剣の伝来【二人の太子の出会い】

…し、聖徳太子の勅使・秦河勝(はたのかわかつ)に迎えられる。 妙見信仰の伝来(1)(星田妙見宮) 始まりの大星降臨の地・青柳の浦に逗留し九月の祭事(北辰星供、ほくしんほしく)までに宮を立てるように指示した後、琳聖太子は秦河勝とともに大和に旅立ち、推古五年四月 難波の宮 で聖徳太子と会見。 百済国より持参した 北斗七星剣 を捧げた(時に聖徳太子24才*4、琳聖太子26才) 七星剣(四天王寺所蔵)現在は東京国立博物館に寄託 写真はWiki 琳聖太子は聖徳太子を『十一面観世音菩薩』の…

【融通念佛宗総本山 大念佛寺】大阪・秦氏のこん跡を探して【クマタのハタさん】

…氏を滅ぼしてから(#秦河勝)次に登場するのが伏見や京都。なぜか大阪で足跡が途絶えます #良忍 #融通念佛宗 #大念佛寺 #藤原秦氏 #百万遍念仏 目次 杭全(クマタ)の(秦)ハタさん 大阪(摂津・河内)で薄い秦氏の存在感 杭全、平野あたり 融通念佛宗総本山 大念佛寺(大阪市平野区平野上町) 大念佛寺を開基した良忍上人 【参考】良忍上人略伝 アラハバキ解 第48章公開 赤い矢と出雲後物部(いずものちもののべ) 本文 杭全(クマタ)の(秦)ハタさん 私にとっての「秦」といえば「ク…

【京都 八坂庚申堂】八坂の塔そば 見ざる聞かざる言わざる【くくり猿】

…面金剛は、飛鳥時代の秦河勝が秦氏の守り本尊として招来した のを(平安時代・天台宗の僧)浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が一般の人々にもお参りできるようにと960年に設立。現在のお寺は1679年の再建。 八坂庚申堂 庚申は『かのえさる』の日を意味し、この夜に人間の体の中にいる三尸の虫(さんしのむし)が、寝ている間に体から脱けだして、天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行く。天帝は悪いことをした人に罰として寿命を縮める。三尸の虫は人が寝ている間しか脱け出せないので、庚申日は徹夜をする…

【新説・四天王寺】ベールに包まれた守屋祠が物語る謎【物部さん考】

….com 太子軍は、秦河勝(はたのかわかつ)の補佐のもと、若き厩戸皇子(太子)自身、あるいは、太子の一族が率いたと考えています。 ただ丁未の乱の後、河勝を含め秦氏の政治的な動向が伝えられず、蘇我氏の悪行ばかりが書かれた日本書紀・古事記に違和感を覚えます。 飛鳥時代のヤマト王権の悪事象がほぼ蘇我氏に集約された背景に、用明天皇の死に関与した 真犯人 がいて、記紀はそのこと(真犯人)を隠そうとしたのではないか。 崇峻天皇の暗殺も同じ。 このあたりが飛鳥時代を推理する面白さであり、四…

【世阿弥の暗号】おもへば伊勢と三輪の神 一体分神の御事 今さら何と云わくらや【謡曲・三輪】

春の野 奥に三輪山 御神体・三輪山への登拝口のある狭井神社(さいじんじゃ)から、山の辺の道を北に1キロほど歩いて檜原神社(ひばらじんじゃ)に向かう。 途中、趣きのある土塀の玄賓庵(げんぴあん)を通り過ぎる。 三輪明神とともに、有名な謡曲「三輪」に登場する僧、玄賓(げんぴ)が隠棲した庵。 毎年4月10日(今年は金曜日)大神神社・後宴祭の後に演じられる「三輪」が最も盛り上がる結末の一節。 おもへば伊勢と三輪の神 おもへば伊勢と三輪の神 一体分神の御事(おんこと) 今さら何と云わく…

【もうすぐひな祭り】和歌山・淡嶋神社 ひな流し神事と大阪分社・淡嶋明神社 うつろ舟伝承【由緒が似ていて矛盾する謎】

…でん)に「(御祭神の秦河勝(はたのかわかつ)こと大避大明神は)摂津国難波の浦よりうつほ舟に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨のしゃくし(坂越)の浦に着く」と書かれていた。うつほ舟が『うつろぶね』のことだ。 どうも、生きた人が乗る舟ではなかったように思う また、実際に舟かというとそうでもないかも知れない。 迫害や幽閉のニュアンスを含む『亡き者にする』といった類の史実を隠すためのレトリック(修辞)のようにも思えるが、今のところはわからない。 www.zero-position.…

大阪市内 秦氏のこん跡 四天王寺・夕陽丘周辺

…た太子を補佐したのが秦河勝(はたのかわかつ)であることはよく知られている。 本来、その役割は、蘇我馬子(そがのうまこ)のはずだが大阪市内、どころか、大阪府下のどこにも、蘇我馬子が実在したことを示す証拠は皆無 だ。 かといって、秦河勝の神社、遺構・遺跡も市内にはあまりないが、ほんの少しだけある。 大阪府下では摂津方面(淀川沿い)に多い。 東儀さん・ご先祖代々のお墓、天王寺区伶人町 良運院(天王寺区下寺町) 左パネル(文字起し) 良運院(りょううんいん)には、千四百年にわたって四…

上賀茂神社(4)賀茂別雷神社 御神体の神山 賀茂氏と秦氏 赤い矢の神話

上賀茂神社から神山 上賀茂神社の御神体は神山(こうやま)。 御祭神は賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)。 御祭神が神山(こうやま)に降臨したのが、上賀茂神社のご由緒。 御神体の神山 神山(禁足地)の様子が、四天王寺の古本市で買った「新撰京都名所図絵・巻二」に書かれていたので転載する(要約、カッコは開物) 「上賀茂神社の正北二十町(約2キロ)に位置する円錐形の独立峰。山頂には、珪石(けいせき)が露出した一帯、磐座(いわくら)群がある。この中でも最大のものを「降臨石」という。…

秦氏の長 聖徳太子の側近 能楽の祖 秦河勝 大明神となった 坂越・大避神社 沖の生島に墓所【風姿花伝】

…の生島(いきしま)に秦河勝公の墓所 歴史上、秦河勝(はたのかわかつ、560ごろ~647年)は何度か登場するが、丁未(ていび)の乱(587年)で聖徳太子を補佐し、物部守屋(物部氏)を滅ぼしたことが最大のトピック、河勝が30前の話ということになる。 河勝が大避大明神(おおさけだいみょうじん)として天照皇大神、春日大神とともに祀られているのが、赤穂市坂越(さごし)の港町に鎮座する大避神社(おおさけじんじゃ)だ。 境内から坂越浦 沖に生島(いきしま)右は海側から 大避神社境内 境内か…

物部さん考(2)「もののふ」は「もののけ」に 古代ヤマト時代の終焉 「物」から「鬼(もの)」へ

…記事末) この点で、秦河勝(はたのかわかつ)がカギを握っていたと考えています。 太子の参謀役として見え隠れし、当時の秦氏の頭領とされた人。 秦氏について、理解している範囲は次の通り。 赤穂(兵庫県)から河内の津(大阪)の上町半島南部に定着、当時の淀川河口の摂津、山城(京都)、近江と流域を遡りつつ広がっていった「もうひとつの」ものづくり集団。 赤穂時代以前のルートは不明。渡来系氏族とされる。 河勝のものと伝承される墓が、大阪府寝屋川市太秦(うずまさ)にあります。 伏見稲荷大社は…